ONE VOICE

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ハイキュー: 大切なことはすべて君が教えてくれた

Music: 大切なことはすべて君が教えてくれた/Prelude - 林ゆうき

ハイキューの連載が今日終わった。
これだけ長い間応援してきた作品なのに、
書き残しているものがツイッタの悲鳴くらいなので不思議だ。

でもそれだけ主観的にのめり込んだ芸術でもあった。

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ハイキューにはアニメから入った。
最初は確か黒子のバスケの漫画を読み終わり、アニメに移ろうかとちょっとだけ見たけど、
せっかく見るなら展開を知らない、全く新しいスポーツアニメにしようかなという出来心で
安易にハイキューをぽちっとした。
ホントに軽い気持ちだったのを、嫌に明確に覚えている。

すでにs3まで放映を終えていた時期だったけれど、
特に評価も評判も知らず、完全にまっさらな状態で臨んだ。

1x01の最後のシーンで、あー、そういう方程式で行くやつね、はいはい、と思った。
余裕でこなせると思ってたんだ。

スガさんが、
「迷わず影山を選ぶべきだと思います」
のスピーチをしたときに、
あ、これはやばいやつを見ている、と思いながら目じりを拭い、
1x17の伊達工戦で旭がパイプで出てくるくだりの音楽に大泣きして林ゆうきさんを知り、
飛雄の「ちゃんと、みんな、強い」で枕を抱えて嗚咽を上げ、
取っ組み合いでしゃがみ込んだ地べたから
武田先生に諭されて二人が立ち上がる
アニメーションの丁寧さに世界がにじんで前が見えなくなり、
田中一成さんの「そうやって、強くなる」から、
みんなが無言でごはんを食べながら涙するシーンをバスタオルを目にあてて鼻をすすりあげながら見ていた。

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??
泣かされてばっかだな。
けっこう笑ったはずなんだけどな。
おかしいな。

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ご多分に漏れず、3x04の月島が好きだ。
好きすぎてユニクロでTシャツを買った。
今からアニメの音駒戦が楽しみでしょうがない。

彼の物語は、ハイキューの人気の大きな理由の一つじゃないかと思っているけど、
そもそもハイキューという物語が、彼の問いを突き詰めて出来上がっているものでもあると思う。

たかがバレーに、なぜそんなに一生懸命になれるのか。

この問いの切ないところは、
本当は彼だって一生懸命になりたいのだ。
私だってそうだ。
何かに一生懸命になりたい。
そんな風に熱を上げて、夢中になって、好きでたまらない何かに
時間を忘れて没頭してみたい。

この作品がくれたヒントは、
Chaoticな木兎さんの形をしていた。

まず、ちょっとだけ上手になってごらん

木兎さんは、たかが、という気持ちは間違っていないと言った。
でも、貴方だって一生懸命になれる。そういう瞬間は来るんだよって。
これが私の世界に与えた勇気の大きさは計り知れない。
最終解はこうだ。

楽しいからだよ!

そんなメッセージを至上にしたスポーツ漫画は、今までになかった。

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スポーツがなぜ楽しいのか。
バレーがどうして面白いのか。

ハイキューは、勝利の喜びより、
いつもそれを大切にしてきてくれたと思う。
勝つことは嬉しい。
目指したいことでもある。
けれどそれは目標であって、原動力ではない。
もっと純粋で、等しくて、誰もが共感できる何かで、アスリートは動いている。

夢見るものはみんな違うし、
いつか道は分かれていくかもしれない
けれど
きっと
同じ方向を見ているときと同じくらい
同じ燃料で動いているチームも気持ちがいいのだろうと想いを馳せる。

高校生という時間の一瞬は、
目標よりも動機で繋がる部分のほうが本当は多いのかもしれない。
3年間という執行猶予のある体育館の中で
同じ熱を同じ原材料で燃やして、そうして溶かされて一つになる。

ネットのこっち側にいるやつ全員もれなく味方なんだよ。

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最終章こそ、ハイキューの真骨頂で、
毎日が最終日みたいな熱量だったけど、
ストーリー的には大きなプロットがないのでアニメ化されるかどうか、今から心配している。

あの人に騙されて気付いたら借金1000万円の黒尾くんは動きが付くべきだと思うし、
何より24歳設定のcv.中村悠一になるべきなので、
最後の最後までアニメになって欲しい。

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競技というものの観点から、
ハイキューは初期のころから「終わり方」について繊細に触れてくれていたと思う。

1x16の勝者と敗者は、アニメのハイキューの中でも有数の秀逸なエピソードだった。
悔しいことは、凄いことなんだよ。
手放しで持ち合わせられる感情ではない。
何かを目指すとか、何かに熱を持つというスタートラインは
毎日をただ生きていて立てる場所ではないのだと
高校時代をはるかに通り越して今更ながらに思う。
ちょっとだけ上手になる、たとえささやかでもその努力があって、
初めて触れることのできる明確な一線。

武田先生の言葉は、どれも心に近く抱えて生きていきたいと思っているけれど、
今この瞬間も、「バレーボール」だ。
というあのセリフは、忘れ難い。
君たちの何もここで終わらない。これからも何だってできる!
と共に、ハイキューという作品に古舘先生が許した、懐の深さを感じる。

高校3年生は、部活に限らず何かと最後感が強い。
でも続いていくし、
生きていくし、
同じようだったり、もしくは想像したこともなかったりするような、
人生の困難は続いていく。

選手を引退したから経験しなくなる、振り返って気付くたくさんの中に、
きっと「今この瞬間もバレーボール」はあり、
高校を卒業して、そうして続けてきた旅路の中に
恐らく「何もここで終わらない」は存在している。

どれだけ今この瞬間の試合で、
ラリー、ブロック、ディグ、トス、スパイクの一瞬に勝敗が掛かっていたって、
そこにかけるために費やした努力からヒントを得ながら、人は生きることを続けていく。

高校の体育会系部活に育ててもらったと自認する人で、
社会人として文化系のプラットフォームに着地して、
その威力を万人に伝わる言葉で発信できる人はまれだと思う。
古舘先生だから描けた作品なのだと、敗北の描き方をみて特に強く感じる。

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来年に延期された大きなスポーツイベントに関わる仕事をしている。

佐久早聖臣の、「理想の最後」のモノローグは、
金を出してデジタル版を買い、別保存するくらい
このタイミング、この角度で、ドンピシャだった。
個人の聖書の一節として心に刻んでいきたいと思っている。

前述のスガさんに代表されるように、ハイキューは、
不遇を前提条件としたときの、
しかし最大の努力の意義と意味を大切に、愛を持って扱ってくれた作品だったと思う。
結果として実るかどうかは別に置く。
努力は怠らない。
当然のことのように全力を尽くす。
なぜか。

今までどのような媒体のスポーツも説明してくれなかったその理由を
教えてくれたのがハイキューだと、私は信じてやまない。
結果的には木兎さんの「その瞬間」に帰す。

楽しいからだよ!

目標に手が届かなくても、思った自分になれなくても、
過去のあの瞬間、頑張っていた誰も可哀そうではない。
だから、ハイキューに悲壮感は一度だってなかった。
補欠でも、天才でなくても、
負けは今の力の認識であって、何かの否定ではない。
菅原孝支はどの過程にあってもかわいそうではなかったし
及川徹は畏怖すべき存在であり続けた。

「その瞬間」を、ただ努力で繋げていく。
そうして、
ただ注意深く手を尽くし
運良く。
「いつ終わってもいい」と思っていたい。

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考えれば考えるほど、言葉にしておきたい思い入れのある作品を
過去3年ほど、
ただただ享受し、美味しいトコ取りをし、勇気と元気だけをもらって
毎週楽しく幸せに過ごしてきた。

どこに行っても、
どんなおいしいものを食べても、
どんなきれいな景色を見ても、
それはハイキューでもらうパワーとは同じではなかったなぁ。

稲荷崎戦での
日向のディグを思う。
あの時私はイギリスにいて、
職場のある大学のさびれたカフェテリアで
ランチにしてはちょっと高い中華料理屋のチャーハンを食べながらケータイで見ていた。

手のひらサイズの画面に映し出される日向の両腕を見ながら
お昼ご飯を中断して、ひとしきり泣いた。

この今も
あの今も
どこかに届いて
何か思いがけないような瞬間を
生み出すのかもしれない。

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楽しく。
出来る努力をしながら
ちょっとずつだけ上手になって
勝負事を楽しめる強さをかき集める。
そうして喜んで
はしゃいで、
進む。

ハイキューは、バレーボールの話でありながら
バレーボールだけの話であったことは一度だってなかったと思う。
記憶に残っているバレーボールの場面は、
バレーボールに何の関係もない勝負の場面で私に勇気をくれるだろう。
これからも。
いつまでも。

お世話になりましたハイキュー。
ありがとうありがとう。