ONE VOICE

     * ONE LOVE + ONE LIFE + ONE VOICE *        笑っていれば、イイコトあるよ  

背中

昨日のエントリーで言及したもので、2004年10月10日に書いたものです。(本当はここにもちゃんとアップされているはずだったんだけど、なぜか行方不明でした)
--------------------------------------------------------------

彼は振り返らなかった。彼は客席を見上げなかった。大きなラケットバッグを二つ、無造作にその背にしょって、彼はコートを降りる。ゲートをくぐる彼を、追いかけるカメラが早足だった。
ロディックの背中が、早足だった。

昨年、全仏で予選上がりに一回戦敗退を喫するという苦渋を味わったロディックは、長年連れ添ったコーチと離れると、新たなパートナーにアガシ復活の立役者であるブラッド・ギルバートを選んだ。二人で挑んだ最初のトーナメントで、ロディックは芝の上、優勝カップを掲げた。それは”I don’t win a game on grasses”と言った彼の自己認識を覆す、大きなものだったに違いない。そして覆された自己認識は、ギルバートへの信頼と自分への自信とに力強い拍車をかけたことだろう。彼はそのままウィンブルドンをQFまで駆け上がると、ハードコートシーズンになったツアーを28勝2敗という驚異的な数字と共に支配した。その28分の1に、彼が抱きしめたUS Openのシルバーカップがある。「信じられない」というありきたりな言葉を、彼は口にした。しかしその勢いと強さは、ありきたりではなかった。11月、親友であり戦友でもあるフィッシュにビールをかけられながら、ワールドチャンピオンの王冠をその頭に戴いた。2003年、彼は、王者だった。

今年最初のスラム、全豪。QFで怪我から復帰したマラット・サフィンを相手にファイナルセットまで粘りつつも惜敗。全仏では鬼門の一回戦を突破したものの、二回戦で早々に姿を消す。ロディックと赤土が水と油であることを知るものなら、だがそれは別に大きな落胆ではなかったかもしれない。やはり、という言葉で消化できるような、そんな1敗だった。
勝ち進んだウィンブルドン、30何年ぶりという前置きで始まるトップシード対決となった決勝コートの反対側にいたのは、昨年もその前に屈した、フェデラーだった。第一セットをむしり取ったものの、幾度にも渡る雨が、その勢いを湿らせていった。
タイトル防衛のかかったモントリオールとシンシィのマスターズシリーズ、再びのフェデラーと、先輩アガシにその行く手を阻まれた。
今年の第一目標と言っていたアテネ。しかし相次ぐ番狂わせの一つに、ロディックの名前も含まれていた。
ディフェンディングチャンピオンとして挑んだ四大大会最後のトーナメント。筋書きのないドラマが大好きなニューヨーカーたちが、それでも期待してやまなかったのはやはりロディックだった。アーサーアッシュスタジアムで、世界最速を誇るサーブを叩き込みながら、彼は一セットも落とさず圧倒的な強さでQFへ進む。相手はスウェーデンの同い年、ヨアキム・ヨハンソン。筋書きは、決まっているように思えた。ファイナルセットに縺れ込んだ試合。ロディックのフォアがベースラインを割る。ヨハンソンが、こぶしを突き上げた。それが、今年のドラマだった。
勝っても負けても、対戦相手はもちろん、観客への賞賛を一度たりとも忘れたことのない彼が、足早にコートを降りる。彼は手を振らなかった。ありがとうを言わなかった。ロディックの健闘を称える拍手のやまない中で、彼は何かにおわれるようにゲートをくぐる。何も言わないその背中が、とても雄弁だった。

やはり、とはもう言えなかった。大きな大会で、勝てない。けして悪い一年ではないのだ。獲ったタイトルはここまでに4つ。ほとんどの試合でQFまで進出しているし、デビスカップでは無敵の強さを誇っている。試合そのものの勝数だって、ツアー随一なのだ。だがそれでも、同じではない。去年とは、何かが違っている。彼が上半期、インタビューの中で何度も口にしていた言葉がある。「去年は確かにいい一年だった。けれどその一年はもう終わってしまったんだ。そして僕は違う一年を戦っている」 そしてその言葉は皮肉にも、去年と同じように勝てないということで、証明が成立した。

試合後メディア向けの取材に応じた彼は「いい気分はしない。だけどそれと同時に、最後まで投げなかったし、自分の持っていた全てを出し切ったという気持ちもある。・・・自分ではこの大会に向けてとてもいい準備をしてきたとおもってたんだ。ショックだよ。それに残念だ」とコメントした。全豪も全英もアテネも、誰が見ても無謀な挑戦ではなかった。それだけに、全米に賭ける気持ちはあっただろう。あって当然だ。それをして許されるだけの強さが、彼にはある。しかし全米を獲ったのは、彼ではなく、フェデラーだった。プロデビュー後、数々の大金星をあげ、アメリカの期待を一身に背負ったアンディ・ロディックはたった4年で栄光の座をつかんだ。しかし、その速さゆえに、多くの選手が道中身につけるものが、見落とされていたのかもしれない。

「伸ばせるところはまだたくさんある」自身がそう公言するように、ロディックのテニスは、まだ完全ではない。ナンバーワンになることと、完成されたプレイヤーになることとは同じではないのだ。まるで穴の見当たらないフェデラーのテニスとは逆に、ロディックには不完全さという強みがある。デビュー当時に比べればコースをつけるようになったバックハンドも、どこか“ばたばた”と形容したくなるボレーも、彼のフォアとサーブにはまだつりあっていない。そしてその二つでさえ、精度を上げることは不可能ではないはずだ。03年のウィンブルドンを獲るまで大舞台になると途端に調子を落としては、無冠の帝王と称されたフェデラーは、その時唯一の弱点と言われた精神力を克服し、今ではゆるぎない自信に支えられた絶対的なテニスでツアーを支配している。一方ロディックの精神力は、4年前からすでに大舞台で常に発揮されてきた。チャンを相手にしても、サンプラスをネットの向こうに迎えても、むしろ嬉々として挑んでいくその姿には、萎縮という言葉がまるで見当たらない。フェデラーとは逆に、精神力が先行し、技術がそれに遅れをとっている。どんな危地に陥っても、それでもひょっとしたら、と観客に思わせ、引き込んで離さないロディックは、何が起こるかわからないスポーツの面白さを存分に表現できるプレイヤーだ。しかしそれは、揺ぎ無い精神力と、未完成の技術という不均衡がもたらす、一種の奇形児なのだろう。

去年から続いていた、決勝戦での8連勝という数字は、今年はその多くをフェデラーに阻まれ、ロディックを準優勝者としてみるのも、違和感がなくなってきた。誰の目にも明白な2004年の王者を、昨年の覇者は一体どう見ているだろうか。
今年ただ一つ手にしたマスターズシリーズタイトルは、3月下旬のマイアミ。フェデラーにシード1という数字を譲り渡してから、ちょうど2ヶ月ほどが過ぎた時だった。確かにロディック優勢ではあったが、対戦相手コリアの途中棄権で終わっており、本人からしてみれば嬉しさ半減、周りの者には、威厳半分のタイトルだった。「大きなタイトルがほしかったんだ」彼は腰を痛めたコリアを気遣いながら、それなりの喜びを表した。「ここで優勝できたことで、今年もアンディ・ロディックが健在であることを、証明できたと思う」
今にして思えば、あれはサインだった。勝たなければ存在を認められない世界、思いもかけない勢いでその頂点に立ってしまった彼は、もがき苦しみながら、それでも少しずつ山を登ってきて、ついに頂に立ち上がったフェデラーから押し付けられるプレッシャーと、静かに戦っていたのだろう。去年と違う一年を、と言い張る一方で、しかし今年も同じようにがんばらなくてはいけない、という二律背反。弱くなったわけではない。しかし勝てない。何もかもが結びつかないもどかしさにイラついているのは、紛れもなくコートでもがくロディック自身のはずだ。しかしそれこそが、今、テニス界に君臨するフェデラーが、何年もかけて乗り越えてきた苦汁そのものではないのだろうか。

10月のバンコクで、ロディックはまたもフェデラーを前に辛酸をなめた。けれど微動だにしないフェデラーの剛毅さ有り余るテニスを打ち負かすとしたら、今はロディックしか考え付かない。ネットを越えてはるか向こうに毅然と立つフェデラーに今誰よりも近いのは、間違いなく彼なのだ。うまく決まったポイントに喜び、観客とハイファイブする彼。ボールを追いかけてダイビングした挙句に、手首を痛めてしまう彼。のめり込むあまり主審に暴言を吐いたり、ラケットを叩きつけたりして不興を買ったことも一度や二度ではないが、それも自分のテニスなんだとあっさり割り切ってプレイできるところに、彼の強さを感じる。そしてその向こう側に、テニスが好きでたまらない、楽しくてたまらないと、夢中になる少年を見る。ロディックは、まだ伸びてくるだろう。何につけても負けず嫌いで、挑戦することをやめないがむしゃらな彼の姿が、ジョン・マッケンローをして、観客を惹きつけて離さない、人前でプレイするために生まれてきたプレイヤーと言わせたことがある。1勝8敗という対戦記録のまま、彼がフェデラーを黙ってみているとはどうしても思えない。

全米の敗戦後、ロディックはインタビューをこう締めくくっている。「大丈夫。僕は立ち直れる。もちろん今はいい気はしないよ。でももし僕がここで落ち込んでいなかったら、それではきっとダメなんだ」惜しみなく送られる拍手に、両手を挙げて応えられなかった彼は、間違いなくダメなどではない。だからこそ足早だった背中でも、「ひょっとしたら」を託したくなるのだ。だからこそ足早だった背中に、夢を見たくなるのだ。