ONE VOICE

     * ONE LOVE + ONE LIFE + ONE VOICE *        笑っていれば、イイコトあるよ  

黄色い涙

*いつもの如く、内容・描写、その他の細かいところにも躊躇なく触れますので、自己判断でどうぞ。ちなみに嵐についての割には辛口です。ご容赦あれ。*

うん。嵐じゃなかったら、DVDは買わなかったよね。
嵐じゃなかったら、二度も三度も見ないよね。
昭和そのものを体現していて、昭和の映画としては良かったんじゃないかな。どことなくスカスカしていて、隙間風が通り抜けていってしまうような昭和度は、確実に再生されていたけど、娯楽として見るにはちょっとつまらなかったぞ。

正直、相葉さんについて語るのは気が引けるわけですよ。どうしても相葉ファンの目線で見ているから、いい意味でも悪い意味でも、必要以上に見てしまっている気がする。だから例えば、レトロなスクリーンに対して、彼の収まりが悪いとか、どうしてもその非昭和なスタイルが場違いだとか、思ってしまうけど、別に相葉さんにアテンションを向けなくていいところで執拗に彼を目で追っているせいかも知れないし。けれど、物凄く率直に言えば、相葉さんは役を自分に近づけすぎのような気がする。自分に演じやすく解釈している部分があると思うんだよなぁ。それは相葉さんのせいなのか、監督の意図なのかは分からないけれども。井上章一は確かに画面上に生き生きと輝いてはいたけれど、それは「がんばっている相葉雅紀」以外の何者でもなくて、井上章一という男がどういう男なのかは明確には見えてこなかった。いや、それは正確じゃないな。章一さんの、その奥が見えなかった、と言ったらいいんだろうか。台本以上の何かが、井上章一と言う役に、相葉雅紀の体現によって書き加えられることがなかった、と言ったらいいのかな。誰がやっても、これが最低ラインの井上章一だったと思うんだ。相葉雅紀だからこその、井上章一の深み、というものは、見当たらなかったよ。残念ながら。相葉さんはしゃべり方に特徴があるんだよね。前は声のせいなのかな、とも思っていたけれど、やっぱりイントネーションに「相葉雅紀」がにじみ出てしまっている部分があると思うんだ。そう気づいたのはAAA+のCool&Soulのイントロのスピーチとスケステに移動中の「今居合わせる」といった時の息遣い、言葉遣いに相葉雅紀を感じたから。発声や表情というよりは、セリフまわし、だと思うんだよね、課題は。演技は下手じゃないと思うんだ。結構表情で笑わせたり、表情で泣かせたりはできる人だ、という気がする。意外と、計算ずくな男なんじゃないか、と私が密かに疑っている理由もそこにある。ただ、確実に声優はできないだろう、という逆算から、やはり相葉には台詞回しの妙が足りない。かくして、井上章一は、相葉雅紀の延長でしかない。

松本潤の存在価値が良く分からない。彼の励ましにもかかわらず、ほとんどの人は夢をあきらめていった。彼の存在がまるで要らない火を煽った人になってしまったみたいだ。そのうえ簡単に安直にときえと結婚させてしまって、結局ときえの存在価値まで意味不明になってしまった。別に、結婚はなくても良かったんじゃないの? ストーリーのアクセントとしては確実にうまい発想だったと思うんだけど、運びまわしで失敗した感があり。演技は良く分からない。衣装さんに拍手。

大野智。犬童さんが大野君で遊びたかったのが良く分かる。分かりすぎて痛い。最終的に筆を折る場面は、ちょっとしたプライベートライアンでトムハンクスが撃たれるシーンだったけれども、無理に引かないで、そこは押してしまえばよかったんじゃないかと思うぞ。ここは大きく博打を打つべきだったのに。窓越しではなくて、もっと近くで、彼の夢の崩壊を見たかったよ。だって明快に描かれる彼の夢の崩壊が他の2人の夢の崩壊も示唆しているわけで、それをあんな引き絵で描くのはちょっと物足りないんじゃない? ただでさえ浮き沈みの薄い映画なんだから、ここくらいはちょっとしつこいくらい折れた筆をキャプチャーしたら良かったんじゃないだろうか。下川圭の涙の行方を追ったらよかったんじゃないだろうか。コメディアンとして大野智を認めてくれたのは嬉しいけれども、私が願ってやまないのは、静ではなく動の俳優として大野くんを使ってくれる監督さん。大野智にはそれができる要素がある。大雑把に言えば、レオナルドディカプリオを求めてほしいのです、リーダーに。そうしたら絶対おもしろくなるのに。ちなみに最後の手紙の字は秀麗でした。あぁいうラブレターが欲しい(笑)。

櫻井翔さんは、私の中では大健闘賞でした。彼が一番役ができあがっていたし、京都弁のよしあしは分からないのでほうっておくとして、万人が分かってあげられるだけの伝達力はあったと思うんだ。ダメな人間だ。でもそれだけじゃない。愛すべき何かもきちんとそこにはあって、それは櫻井翔の形をしていなければ伝えられなかった何かだとも思う。半ケツも全ケツもどうでもいいよ。あのセリフの前と単語の間にある、どこか間の抜けた呼吸。あれは、単純なる京都弁のせいではなくて、櫻井翔がひねり出した、向井竜三の会話の呼吸なんだろう、と思わせるだけの、一定感と主張があったよ。才能玉のときも書いたけれど、翔くんはやっぱり、普段の自分とかけ離れている役のほうが断然うまいと思うんだよね。よい子の味方とか、御村の坊ちゃんとかは、わざとらしさが消えないけれど、ピカンチとか、こういったわざとらしさがむしろ要求されるようなキャラの濃い役は、綺麗にこなしてくれる印象があります。

最後に二宮和也という人。
青の炎の時に書いたけれど、この人がスクリーンにいると、全てが彼に持っていかれる。それは不思議なことに、全編を通して何もかもを持っていってしまう存在感があるとか、そういうことではなくて、彼が全てを掻っ攫う「瞬間」が常にあるから。一番最後の「俺はね」と昔の恋人に怒りを吐くシーン。半拍早いんだよね、タイミングが。いや、半拍というような簡単に割り切れる数字ではなくて、もっと中途半端に早いんだよね、セリフ出しが。二分休符なのに、16分の3拍早いんですけど、みたいな、曖昧なタイミングのずれ。このずれがね、なんかね。物凄く突き飛ばされたような感覚に陥るんだけど、でもかえって巻き込まれていくんだよね、その剣幕に。これを計算してやっているんだったらすごいな、と思うけれど、役者二宮は、役者二宮だけは、本能だと私は信じているので、これこそ本領だよね。多分ね。なんだかね。すごいんだよ。その早められたタイミングのせいで吸い切れなかった呼吸が、まだ私の胸に迫ってくる感じがする。コメンタリーで監督が誉めていた、終わりのほうの漫画事務所での表情もよかったけれど、私的にはこの呼吸の狂わせ方が一番ツボでした。二宮和也バンザイ。彼はドラマはやめて、映画俳優になるべきだ。一時間×10では、彼のよさは生かされないよ。一通りを根詰めて見て初めて、その詰めたものを崩し落とす彼の破壊力を知ることができると思う。

うまくいえないけれど、監督の取りたかった絵は、確実に取れている映画だ、という気がした。美術的には綺麗に取れている映画だったし、一こま一こまが優しかった。ぼぉ~っと見てる分にはよかったのかもしれないけれど、それにしてもちょっと長すぎたんじゃないかな。最後の二宮くんのシーンがあったのはありがたいけど、やっぱりちょっと引っ張りすぎだよね。手紙あたりで切ってしまってもよかったんじゃないか? そのバックで3人が出て行けばよかったんじゃないかと思う。「俺はね。」の部分は手紙の前にも盛り込めなかっただろうか。

昭和を描きたかったんだったら、いいんだ、これで。このなんとない、「だからなんだ?」という感覚は、昭和だ、と言うような気がする。大事件が起こるという訳でもなく、起こらないからどうということもない、この間の抜けた感。昭和だ。昭和だと思う。けれど平成の世に娯楽としてみてしまった私には、どうもなんだか、嵐鑑賞会用ビデオとしての商品価値のほうが高い気がする。


パチパチする