ONE VOICE

     * ONE LOVE + ONE LIFE + ONE VOICE *        笑っていれば、イイコトあるよ  

鬼束ちひろ

ずっとこの人を誉め殺しの墓場に葬ろうとか思っているけど、なかなかいい言葉が思いつかなくて放置状態。

私は1stアルバムしか自力で買わなかった不埒者だけど、彼女の声がどこから引っ張り出してきたんだろうという歌詞に乗るのを息を呑んで黙って聞いているだけで、浸っていける。

今はまるでどこで何をしているのか分からないけれど、彼女が歌を無くして、果たしてどこまでいけるものだろうかと、ふと思う。彼女の歌というか、歌う姿勢というものは、なんだか彼女そのものだと思えてしまうくらいに、あたしにはこれしかない、これしかない、という、まさに鬼気迫る切迫感がひしひしと伝わってくる。あれはきっと本人も気付いていないくらいの本気の崖っぷちを表現しているんじゃないかと思うものだから、それを無くして、彼女はどこからどこへ一体どうやっていこうとしているんだろうかと、なんだか自分が不安になってみたりする。

私は間違いなく彼女には才能が与えられていたと思うんだけど、それは別に彼女の声や、詞や、歌唱力とかいうものではなくて、もっと歌で自分が表現できる開放感それ自体だったのではないかな、と。世の中に言葉を書き連ねて何とか自分を落ち着けるとか、絵を描いてみたり、写真を取ったりして、何とか自分の世界を他の誰かと共有している感覚を求めたり、色々な人がいて、そこにはきっと色々な才能があるんだろうと思う。でも、例え歌がうまくなくても、歌詞がどうしようもなく陳腐でも、それで表現しきれる自分があるのだったら、それはきっと世界で一番恵まれた才能なのでは、と思ったりする。

だから、伝わっていない、繋がっていない、同じ言葉で同じ音楽で、けれど同じ世界を見ていない、と気付くことは、才能の喪失であり、開放感の喪失であり、自己表現の喪失でもあると思う。私自身結構その連鎖を作り上げる傾向が強いから、もし彼女がそうなのだとしたら、と思うと、間違いなく才能が大きかっただけに、喪失感も尚更なものに違いなくて、心配。


私の何処かで 何かが消え失せ
サビついた怒りを手放そうとしてる
-螺旋-

手放してしまっては、何も残らないのだと。
そして彼女はどこまでいけるのだろうと、私がふと、不安になる。