Music: Your Hand In Mine - Explosions in the sky ←
私のタイムラインにジョージ・フロイドが登場してからしばらくの間、私はそれを別の誰かの追悼記念日なのだと思っていた。これまでにあった幾つもの、警察による不適切で致命的な行いによって失われた命の一つを思い出して悼んでいるのだと思っていた。しばらくたってこれが新しい犠牲者なのだと知り、とても不思議なことに、そのとたん、もうそれ以上は聞きたくないな、という気持ちでしばらくSNSからそっぽを向いた。
そもそもそういう選択肢があるということが贅沢なことで、無関心こそが最大の罪とするマザーテレサの観点からすれば、この選択は大いなる罪悪であったのだろうと理解している。
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ユヴァル・ノア・ハラリは、サピエンス全史のなかで、人間のもつ「虚構」を共有する能力について話していて、ずっとこれのことを考えている。人間という動物の社会では、会社や法律という、実態としてそこには存在しないものを、みんな了解し、認識し、共有している。仕事でワークフローとかマニュアルとかを作るときに痛感するのだけど、そのコミュニティの制度やシステムというものは、いつの間にかできているパターンと、きちんと記述されているパターンがあって、それを上書きする形で新しい制度を構築する際にはそのどちらも網羅しておかないと、新たな虚構として共有されない。共有されてもその適用範囲に制限があったり、どこかで解釈違いがあったり、何か不都合がある際には以前の虚構が顔を出してきたりする。
私がSNSにもう一度目を向けるようになって、最初に見た動画の一つがトレバー・ノアのものだった。スクリプトなしでこのレベルの理路整然が達成可能なのかと驚嘆する内容であったのだけれど、見終わった後にしばらく考えていて思ったのは、彼はひょっとしてデモだけでなく略奪行為まで含めて、それが今回の事件への反発行動であるのかを、結果的に説明してしまったのではないだろうか、ということだった。ミーシャ・コリンズが行ったインスタライブのパネルでも、略奪行為について話は出ていて、どれだけ言葉を尽くしても響かない状況においては経済的損害が最終的な共通言語である、という説明に納得はした。ただこの発言はあくまでデモがエスカレートしてそうなってしまう状況を分析していたものであって、ジョージ・フロイド殺害という具体の事件との関連性には触れられていなかった。
トレバーは、彼の話の中で、社会とは住人がお互いの間で交わす契約であり、共通のルールや理想、生活様式を了解して契約を結んでいる状態、としている。これをハラリのいう「虚構」のことなのだと考えると、彼の話を私が解釈したところでは、「虚構」によって虚構の番人であると定められた警察こそが虚構を犯したため、その行為に反発する勢力も、虚構に従順であることに価値を見出さなくなった、暴動をせずにいて略奪をせずにいてそこに何の意義があるのか?、ということなのかと思う。私は当初から、デモの発端と矛先が警察という集団の不適切な行いであるときに、警察という組織が不適切行為に備えてデモの場にいるということがすでに論理的に破綻している気がしていたのだけれど、その理由がすこし分かった気がする。
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実は一番最初に見た動画はミーシャのパネルだった。当初、ミーシャとアクレス夫妻とパネリストがディスカッション、という雰囲気に見受けていたので、こういう話を俳優さんが仕切り回すって大丈夫なんだろうかと思っていた。アクレス夫妻の立ち位置が謎だったし、どういうトーンで見たらよいのか分からなかった。結果的には、ミーシャ・コリンズという人の弁才を見たくて恐る恐る覗いてみた感じだった。
ミーシャのパネルが私にとって良かったのは、まず何よりも平和で教育的だったことだと思う。自分は、SNSやネットで、こういう形で発信される情報なら、感情的に打ちのめされず冷静に理解しようと努めて受け入れられる、と気付くことが出来たのは大きかった。パネリストの皆さんがとても知的な方で、今起こっていることがこれまでと違うように感じるのはなぜか、実際にはなにが違うのか、それはなぜか、明確な言葉で説明されて分かりやすかった。多様な解釈が起こり得る状況でそれを認識している人は、解釈に幅が出ないよう気づかいのある表現をすることが出来ると思う。シンプルでクリアな彼らの言葉はとても勉強になった。ただ、それとは別に、もっと根本的なレベルで、ミーシャが設えたフォーマットから学ぶものはとても多かった。
いまSNSやいくつかの動画を見ていて、繰り返し聞く言葉がある。Educate yourself (もしくはlearn)だ。ミーシャの動画が始まった時、アクレス夫妻は、旦那さんのほうが、話を聞いて学びたいという気持ちで参加している。と述べた。そしてこの自己紹介の後は完全なる聞き役に徹し、何かコメントをするわけでもなく終了した。奥さんに至っては文字通り一言もしゃべらないまま終わった。ミーシャも質問を4つほど投げかけて発言者を指名するだけで、自分の解釈を述べたり自論を展開することはなかった。私はこれを見て、思ってたのと違う、と感じたのだけど、それと同時に、ほっとした自分を見つけた。こういう参加の仕方、アリなんだ、と思ったのだと思う。
実際には時間の都合だったのだろうし、この動画の一番大事なところがそれではなかったことは分かっているのだけど、話を聞くだけでもよい、という行動の妥当性の確認ができたことで、今の状況全体に関して、私は肩の力を抜くことが出来た。一歩目をどこに踏み出せば良いのか、現実的な目星がついたのだと思う。その時までの自分が無関心という罪を犯していたとしたら、行動にはまだ結び付けられないし、具体的に声を上げることもしてはいないけれど、関心は持っているという状態には進んだ。今のアメリカ社会の動向に関して「学ぶ」という言葉を使う時、その教科や方法にはとてもたくさんの種類があると思う。私が主に学びたいのは、人種差別の会話をする時、どういう作法が求められるのだろう、というところで、それはその会話をする人たちを見ることで得られる知見なのだと知った。
高校を卒業してアメリカに渡った時、語学学校で教えられたことの一つに「宗教と政治の話はしない」があった。言及されなかった枕詞は「今の英語レベルで」だったのだろうと後に考える。悪気無く自覚なく言葉や表現を間違えるだけであらゆる形の不利益に発展しかねないので迂闊なことはしないように、という意図だったのだろうと思われる。結論から言うと、私は比較的積極的に宗教の話はした。語学学校のプログラムで練習相手に割り当てられたアメリカ人が、敬虔なクリスチャンで、かつ英語の勉強を積極的に手伝ってくれる奇特な人だった。日曜学校に連れて行って貰ったり、大学のバイブルスタディのサークルに連れて行ってもらったりした。私クリスチャンじゃないよ、お邪魔していいの?と言ったら、良いんだよ、英語の勉強になると思ってるだけだから、と言われた。居心地が悪いようなら無理しなくていいよ、とも言われた。未知の世界に入り込むことは居心地が良いことではなかったけれど、それはアメリカに来てしまっている状態で今更のような気がした。ただ、英語が心配だ、と伝えた。会話をする時に、失礼なことを言ってしまうかもしれない。それはわざとではないけれど、それについて正しく謝ることも出来るかどうかわからない。
彼は、そうなったら僕を呼んでくれたらいいよ、と簡単なことのように言った。しにくい質問があれば、それも僕に聞いたらいいよ。僕も貴方の言いたいことが分からなかったり、発言の意図を確認したかったら、質問をするね。
大学に進学するまでの4か月くらい、カフェに行ったり遊園地行ったり野球を見に行ったり、いろいろ「普通の」遊びもしたけど、日曜学校にも彼が行くときは一緒に連れて行ってもらった。渡米直後の当時の私の英語力で、この時の経験から身に着いた宗教の知識は残念ながらほぼない。ただ私が学んだのは、自分が一部ではないコミュニティの中に入り込み、そのコミュニティを知ろうとするとき、どうあがいても出来る最初のことは、観察し、質問をする、という以外の何物でもない、ということだった。
今はまだ、質問は生まれてこないけど、観察し理解に努めることはできる。聞き手が、自分の立ち位置や、会話の目的を説明する時の表現の仕方だったり、話を深堀りしたいと提示する質問の観点だったり、相槌だったり、感想や感謝の述べ方にはいくつかのパターンがあって、それを自分の引き出しに出来たらいいと思う。いつか質問をしたくなったときに、この話をする場所に置かれたときに、自分の目に映っている虚構と、相手の目に映っている虚構とを、できるだけ正確で平和な形で、言葉で表現して確認し合える力を持っていたい。
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今の状況を見ていて私が不安に思うのは、終わりが見えないことだと思う。いつまで続くのだろう。何が起こればゴールなのだろう。
マルコムXの言葉で、背中に刺さった9インチのナイフを少し引き抜いたからと言ってそれは前進ではない。そのナイフを全部抜き去ったとして、それは前進ではない。前進とは、その暴力が引き起こした傷を癒すことをいうのだ。というのがある。今この状況で、傷を癒すとは何を指すのか、前進してどこまで進めばよいのか、それはどの程度のタイムラインで目指すものなのか、肌感覚が全くない。
分かっているのは、虚構にひずみが生まれていて、これを書き直す必要があるということだ。だけど法律のような文字で書かれている虚構に則っては、デレク・ショーヴァンと3人の警官は逮捕されていて、叶うべくは今後公正な裁きがあることだと思う(願わくば)。しかし文字になっていない虚構を私たちはどう書き直していけるのだろう。理想論は比較的分かりやすい形で私たちの頭の中にあって、それを目指して進みたいことは明確だ。だけどそれを実現するために起こらないといけない制度的な変化というものがどういう形で起こるのか、どうも具体的に想像できないことが、不安で怖いのだと思っている。
以前、タイムラインに流れてきたつぶやきで、弱い人の立場を守れと主張する人の中にたまに、しかし弱い人が強くなることは許さん、と考えているような人がいる。というのを見たことがある。ミーシャのパネリストの中にも、今起こっていることはある種の利益の交渉であり、これまで白人が占めていた立ち位置を黒人に譲るという変化を求めているのだ、という話をしていた方がいた。社会の不平等を正すとき、ただ弱者が力を得て解決、ということはないのかと思う。何らかの形で強者が力や特権や、「当たり前の日常」を失うくだりがあるはずだ。キング牧師の時だって、黒人が選挙権を得たからと言って白人が投票出来なくなったわけではないけれど、全投票数における白人票が割合として減るということは、つまり白人にとっては力を失うということだったのだと思う。現状の文脈に置き換えた時、これらがどういう形のもので、誰のどういう損失を示唆しているのかを思い描けないことが、漠然とした不安とぼんやりとした共感で感覚がとどまってしまう理由なのかと思う。
平等とは何か。公平とは何か。平等で公平な社会とは何か。実在しない概念や価値を築き共有することは複雑なことだけれど、会話からしか発生しないことでもある。物理的な破壊や行動で象徴的に示すこともその会話の手段の一つとして存在はしていて、場合によってはそれが効果的で効率的なこともあるのだろう。けれど最終的には、言葉で記されずに共有された虚構はこんなにも脆いのだということを身をもって学んでいるのが今のこの場面なのだとも思っている。言葉の意味や文脈は時と共にうつろうこともあるけれど、私がどういう人間で、貴方がどういう人間で、ほんとうは共に一つの社会に住んでいるはずの私たちの世界はそれぞれどんなもので、どのように共通認識を改められるのか、安心とは何か、自由とは何か、会話を積み、言葉をひとつづつ共に定義していくしかないのだと思う。