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及川徹を考える: 「及川徹は天才ではない」

Music: 幼鳥 from TVアニメ『ハイキュー!! セカンドシーズン』- 林ゆうき

古舘先生に
何かの拍子にお会いするような奇跡があるとしたら、
まず感謝を伝えて、次に、
及川徹は
果たして本当に天才ではなかったのかという話を伺ってみたい。

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最終話を受けて
海外のありとあらゆる国と地域にいたハイキューファンは
述べなければならないありがとうとさようならの儀式を
いかにもハイキューファンらしく元気に執り行い、
その過程で、
アルゼンチンにある実在のチームに及川が在籍しているのではないかと思わせるような
まさにムーブメント ← を巻き起こしたりした。

ハイキューという作品は
当初、典型的なスポーツ漫画を読んでいると思っていた多くの人が想像していたよりも遥かに広大な地平線をカバーして
高校の先にある未来を当然のことのように描き、
それが真に計画通りの運びであることを見せつけるように
伏線の全てを目もくらむような美しさで回収して昇華し、
これ以上ない健康体で見事な着地を果たした。

登場人物の中で、
無理も無茶もなく海外に進出していったキャラクターは主人公を含め数多くいたのに
現実と虚構の曖昧をぶち破るような形で召喚をされた存在が
結局は及川徹であった。

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基本的にヘラヘラしている。

私の中で、すでに格別だったハイキューという作品が別次元に跳ね上がった瞬間は
主人公たちが越えるべき壁であった及川というセッターを
その時点ではまだ大したキャラクター性を持たなかった岩泉一が語り始めた時だった。

読者として、視聴者として
作者の思うがままに及川を知ることのできる立場にあっても
あの時期の話を本人から聞くことは終ぞなかった。
岩泉という、及川に許された立場にある人物を通じて、
私たちは彼の深淵を知る。

振り返って考えると、
及川自身が彼の視点で自分の才能を語った場面というのはとても少ない。
彼が天才ではないという言葉も
本人が口にしたことは厳密には一度もないと思う。(…あったっけ?)

ただそれに類することを言ったのではないか、という場面は確かに存在していて、
そのシーンこそがこれに繋がる。

「嘆くのは全ての正しい努力を尽くしてからで遅くない」

その言葉を追って、及川は海を渡り、国籍を変える。

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ときどき、天才というものの限定性について考える。
スポーツの天才、とか
バレーの天才、とかいうような漠然とした安易な天才などこの世にはいなくて
天が与える才能はもっと細かくピンポイントで融通の利かないものなのではないかということだ。

彼が天才ではないという描写は、あの場面では真実であったと思う。
けれどそれはもっと厳密にいえば、セッターという技術において、及川は天才ではないということだったと思っている。
及川さんの言葉を借りるなら「ボール回し」という
技術の上でもさらに細かくテクニカルな部分に限定されていたかもしれない。

北さんによれば、天才というのは
1から10ではなく、AからZをやったら面白いのではないか、という発想を持つやつらのことで
それに失敗しても、嫌われても、疎まれても、やらずにはいられなくて
人が大事にするような何かを蔑ろにしてでも突っ走る傾向がある。

同じ世界線で語られる最終話に、
アルゼンチンにわたり、アルゼンチンの国籍を取り、アルゼンチンの代表になった及川さんが登場した。
立派な天才なのではないかと考える。

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才能は開花させるもの
センスは磨くもの

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及川というキャラクターを考えるときにいつも思い出す作品がある。
「神が及川徹を創る時」 一ノ瀬ゆま先生
灼熱のごとき野心、という言葉は、
私の中に散らばっていた及川徹の欠片を見事に終結させて一つの形ですとんと腑に落としてくれた。

彼は、挑みかかるということへの執着が強いキャラクターだと思っている。
(挑むとか挑戦するなどという落ち着いた表現では間に合わない。)
牛島を導いた「強いチームに入るといい」という資質向上論を鵜呑みにして動くことは出来なくて、
あくまでも、
強敵と対峙する存在としての自分と、その強敵と戦うことで確かめられる成長へのこだわりを感じる。
それは、中学というまだ選手として幼い時分から、
勝つことのできない相手に事欠かなかった彼だからこそ紡ぎ出すことのできたストーリーでもある。
及川徹は、優勝したかったのではない。
それを目標にできたら、彼の人生はもっと凡庸だったはずだ。
しかし彼は乗り越えたかった。克服こそが勝利を意味した。
白鳥沢には行けなかったのだ。

「お前はたぶんじいさんになるくらいまで幸せになれない」という呪いは
挑み続けることがアイデンティティになってしまった及川を
的確に読み解いた言葉なのだと思う。
たとえどんな大会で勝っても完璧に満足なんてできない。

及川徹の才能は
例え誰を相手取ってもコートを制すという
挑み続けるその野心にこそあったのだと思っている。

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超現実要素の少ないハイキューにおいても、
少年漫画パワーが発揮されたプロットはいくつかあったと思っていて、
変人速攻は別枠としても
私にとっては
ビーチバレーからインドアへの逆転向、
そしてアルゼンチン代表Oikawaが挙げられる。

突然自分の話になるが、
スポーツの業界に身を置いていて、領域的には人文社会学寄りなので、
特に及川さんの帰化という展開については現実を知りすぎていて、とっさには素直に飲み込めない部分も正直あった。
懸念としては、及川さんがアルゼンチン人になりたくてアルゼンチンの国籍を取得したのであって欲しい、ということだ。
バレーがらみのいくつかの動機があることはもちろん自然だし現実的なことだけど、
選手としてだけではない、自分という人格を形成するものの全てを包括的に考えたうえで、
国籍は日本でなくてもいい、アルゼンチンがいい、と思ったのだといいな、と思っていた。

及川さんはいま、
海外ファンの界隈で、Argentotoというあだ名を与えられている。
スペイン語では、名前の最初の音を繰り返して愛称とすることがあるので、TooruはTotoになり、
アルゼンチンでは「アルゼンチンの」をArgentoと言うので
この二つが組み合わさってArgentotoとなった。
アルゼンチンの徹くん、ということだ。

CA San Juan Voleyという架空のチームでプレーしていたはずの彼は、
いつの間にやら実在の強豪UPCN San Juan Voleyから、
背番号入りのユニフォームを与えられ
現実の監督やらセッターやらから歓迎のメッセージを贈られている。

フィクションの読者としてこんな自分をどうかと思うのだけれど
私はこの現実をみて、
そっか、及川さんアルゼンチンに行ったのか、と
掌をくるんと返して、なんだか素直に受け入れてしまった。

こんな風に受け入れられたらそりゃあ嬉しいだろうし、居心地もいいだろうなぁと。
きっと、バレーを抜きにしても、例えば選手を引退してから後も、
アルゼンチンで、アルゼンチンの人として、彼らのコミュニティに溶け込んで生活していたいと思ったんだろうって。
考えなしに立ち得た岐路ではなかったかもしれないけれど、
それなりに自然な選択だったのかもなって。

及川徹という人物を振り返った時に、
彼の選択を示唆する言動はそれこそ数年前から一貫していたし、
たとえやりすぎ感はあっても
有り得ない、とは一概には言えないだけの説得力を、彼の人物描写は積み上げてきていた。
ひとえに古舘先生の手腕が見事であったということだと思うけれど
それを受け入れて喜んでいる現地の皆さんの声とか、
むしろ、及川ならやりかねない、という楽しさと面白さが、この祭りをここまで焚き付けたのだとすると、
ハイキューという作品の強さと、
この傑作が繋いでくれた世界のファンの結束力を想う。

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ハイキューに出てくるみんなはそれぞれに愛嬌があり
弱さと強さがあって
私はそのすべてを愛している。

及川徹という人物が描かれる様を見ていて思う。
努力を恐れないということが、
私たちにはこんなにも難しい。
どれだけ傷を負っても、前に進み続けることの
気の遠くなるような労力を思う。
でも、連載が終わってからのこの1週間、
果てしない挑戦を続ける人の姿は
こういう風に人を熱狂させるのだと知った。
こういう風に、次元の枠を超えて、世界の人を動かすことだってできる。

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明日のジャンプにハイキューはもういないけれど、
自分の力はこんなものではないと胸に刻みながら
いろんな場所で何かに挑み続けるハイキューファンのいる世界で
私たちはこれからも生きていくのだ。

これからも何だってできる。