ONE VOICE

     * ONE LOVE + ONE LIFE + ONE VOICE *        笑っていれば、イイコトあるよ  

青の炎

*物語の細かい部分にも躊躇無く触れております。知りたくない方はご注意あれ*

二宮和也という役者は、全体を通してみれば、よい語り手、という程度の演技であるかも知れないけれど、必ずいつもどこかに、腰を抜かしそうになるほど強烈な一瞬を薫らせてスクリーンを降りていく役者さんでもある。話の何をも傷つけずに、それこそ監督の望んでいることに口を挟まず、私情を捨てて、忠実に演技をして。無理のない、でも必要とされている分だけの存在感を全編を通して保ち続ける。そのくせ、ある一瞬だけ、それをぶち壊す瞬間というものが彼にはあって。ドラマのほうはあまり見たことがないから何もいえないけれど、彼の出ている映画は、大体仰天されられた瞬間から決して消えることのない、二宮和也という存在の残り香によって、私の頭に記憶されている。

蜷川さんという方が舞台監督としてとても有名で、世界的にも賞賛を浴びているというから、結構そちらにも期待していたのだけれど、舞台を知らない、洋画中心に見ている身には、正直映画は舞台とは違うんだぜ、といいたくなるシーンがいくつかあった。多分、舞台と同じように音楽を使ったり、心理描写を行おうとすると、やりすぎ感を与えかねないのが映画だと思うんだけど、常に情景が一定の広さである舞台と違って、映画ってピンポイントで表情だけを撮ったり、指先だけを観客に見せるということが可能で、そこが醍醐味でもあるから、そこを映画用にうまく使わないと、どうもやりすぎで嘘くさく見える。博物館の長い長いエスカレーターのシーンとか、そんな感じ。二人が一番上から一番下にゆっくり流れてくるだけで十分音のない堕落や静かなる崩壊のイメージは伝わってくるのに、二人で上ったり下がったり止まったりと、何をやってるの? と問いかけたくなってしまう。きっと舞台だったら確実にいい演出だと思うんだ。焦りや憤りも織り交ぜられて、右往左往しつつ堕ちていくしかない櫛森がきっとよく表現できたと思うけど、映画のスクリーンでは、少年たちは逆にとても小さくしか写らないから、長いエスカレーターを無意味にウロチョロする二人の行動は、滑稽にしか映らない。それと、これは別に舞台であろうと映画であろうと関係ないと思うけど、物凄い違和感を感じてしまったのが、初めと最後の"What have we done"の曲。始めはストーリーの流れを汲んで、いいな、と思いながら聴いてると、いきなり"To England"とか歌いだして、「ええっイギリス?」みたいな(笑)。「これを臨界状態と言います」もちょっとわざとらしすぎてイヤだったかもしれない。どうせだったら「青白い光を・・・」で二宮くんの顔を上げさせた後「これを臨界状態と言います」で目のアップとかが良かったんじゃないかと。もう少し、カメラをうまく使ってほしかった、というのが正直なところ。

とりあえず二宮くんの声が今よりも高くてビックリだった。17歳ってこんな感じだったかな、と思いながら見ていた。「こんなに切ない殺人者がいただろうか」みたいな売出しをしていた記憶があるけれど、正直、切ないというよりは痛ましい映画だと思った。切ないという感じは全く無かったかな。

鉄コンのマイケル・アリアス監督を動かした、バットをかざして叫ぶシーンをすごく楽しみにしていたんだけど、実は意外と。うん。「おお、これか!」とはならなかったな。「ああ、これが?」みたいな感じだったのは何でだろう。もう少しのドスの効いた迫力を期待していたのかも。というか、そこが父親を本当に殺害するシーンだとなんとなく勘違いをしていて。だからちょっと肩透かしを喰らった気分だったのかもね。自分勝手だけどね。

映画全体を通して、17歳の精神の曖昧さっていうのかな、自分ひとりだけで生きて行ける割り切った大人にもなりきれず、かといって素直に淋しいと呟ける子供のままでもいられない、みたいなのを描きたかったのかな、という感じを受けたけれども、だからこそ、なんだか強い芯のない、ふらふらした映画になってしまったというのが正直な感想。原作があると思うんだけど、こういうテーマはやっぱり文に勝るものはない気がする。櫛森には最初から殺意はあって、でもそれは「家族を守るためにアイツを追い出す」という目的を達成するためのオプションのひとつだったと思う。だからバットを振りかざして叫ぶシーンでも、17歳のガキがただ喚いているようにしか見えない。あれは単に逆上したままバットを持って飛び出してしまったからで、このときはまだ「殺す」という方法を選択していた訳じゃないと思うんだ。まだ値踏みをしているところだったと思うの。それが母親のヤッテル声を聞いてしまった時に、彼の中で守りたかったものが嘲笑うように奪われていった、という屈辱と、聖域は失われた、という絶望が混ざり合って、「臨界状態です」となる。そして殺すしかない、と決めて、その道を走り続ける。

ところで、原作も何も知らずに見ていた私は、ある瞬間までこの映画はとても単純な物語だと思っていた。少年は憤っていた。自分にだけしかできないと思い込む17歳には単純な正義感があった。そして彼は人を殺した。みたいな。けれど全てを隠し切れずに次第に追い込まれていく彼が最後に選ぶのは、という、言ってしまえばプロット的にはありふれているものがある。

伝えきらない透明なガラスに額を押し当てて。
許したくない自分自身の弱さに飲み込まれそうになりながら
けれどその向こう側の彼女とどうしてもどこかでつながっていたい。
吐き出てくる声を呼吸ごと押さえつけて
何も伝えないように
静かに 静かに
向こう側を見やる。
堪えきれない。どうしても。
息を吸う。
開いた口からそして全ては伝わってしまった。

最初に出てくる水槽の中の青白い光に浮かび上がる手の形は、私は作られすぎていて嫌いだったけれど、とてもありがちな演出の松浦さんとのこのシーンが、私はとてもとても好きで。どうしてかというと、櫛森くんが、とてもとても独りだったことがよく分かるから。正当な理由に基づく激情と、失えない家族を前に、自分は守るべきものを守ると、ゆるぎない正義感に基づいて行動しているように見せかけて、しかし彼はこんなにもまだ幼かった、ということが、痛いほどよく分かる。つまり二宮くんの醸し出す危うさと零れ落ちる脆さに、とりあえず打ちのめされたから。椅子から転げ落ちるかと思ったもん。櫛森秀一という17歳の少年は、こんなにもまだ未完成だった、と思い知らされるその無防備な表情に、私は泣いた。とりあえずその幼さが哀しくて猛烈に泣けた。

青の炎。といえば、私はいつまでも水槽の中で、二宮和也の流した涙を思い出す。
泣かないんだ、櫛森秀一は。それが彼の弱さであり強さだから。
けれど、二宮和也は、とてもとても、泣いていたと思う。
そこに役者としての、ニノの本当の恐ろしさがあるんだと思うんだよね。

映画としては、うん、正直、普通でした。お話としては嫌いじゃなかったけど、やっぱりどうしてもわざとらしい演出がうるさかった部分もあって。けれど役者二宮和也を語るという点では、とても収穫のあった映画だと思った。彼という役者がずば抜けてうまいというわけはないかも知れないけど、櫛森秀一は私にとって忘れられない人になる。それはつまり、そういうことなんだと思う。


パチパチする


*ドリコムPingが送れません。・・・私だけ?