ONE VOICE

     * ONE LOVE + ONE LIFE + ONE VOICE *        笑っていれば、イイコトあるよ  

ここはまだ終わりではない

Music: 黒い弾丸 - 林ゆうき ← 

転職の多い私は
いまだに昇進というものをしたことがなくて
同じ業界にいて35になってそれなりに社会人をやっているのに
未だに底辺にいる。

…こんな考え方をし始めたのはごく最近のことだ。
底辺とか、
そんな言い方を考えたこともなかった。
そうなった自分にへこむし、
そうなった理由にむぅっとする。

客観的に、この立ち位置について疑念を持ち始めたこと自体は
別に特段最近のことでもない。
でも、役職の名前がそれを示さなくても
まとめ役を担うことは当然あるし、
そういう機会をできるだけ上手く使って経験を積もうとか
それなりの前向きな取り組みは比較的してきたと思う。
自分なりに創意工夫を試行錯誤してる感はあったんだよな。
だから、不安や焦りはあったけど、不満はなかった。

ここにきてそれが崩れている。

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私が出したい100%を、そこまでの努力は必要ではないといって蓋をされたとき
あぁここにいたらマズい、と思った。

いや、思わなかった(笑)。
今書いてて気づいた。
なるほど、ここにいたらマズいな。

私は100%がやりたいんだよ!
だってそうじゃないとこのプロジェクト壊滅的じゃん!
多くは望まない、
ただの自己満足で良い。
それが出来ないのにあなたの下についていて何の喜びがあるというのか。

これまでは、放任が多かったんだなと思う。
もしくはきちんと信頼してくれている方と組んでいた。
分かってたけど、その幸運について。
それが尽きたとは思いたくなかった。

やってみたらいいんじゃない

その一言は、そんなに言うのが難しいのかお前には!
結局は保身に走っているだけなのに、
それを解決しようとする努力もせず
挑戦も許さず
どこにも行けないあなたと
私はここで心中できない。

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ここまで来て思ったがこれは私が底辺であるとか
昇進したことがないということとは全く別の話だな。

これは、
単純に上司とウマが合わない、という非常に分かりやすいことについて、
明確な形で何かをリードできる立ち位置にない自分をいつの間にか不安で不満で卑屈に思っていた私が
愚痴っているという大変明快なエントリになるようだ。(笑)

でも愚痴っている時間ももったいないから
何か対策を考えてみようと思う。

それなりに長い間、上手いことお付き合いしていけるように試行錯誤はしたと思うんだー
でももう飽きた!
良かれと思って尽くす努力を
意味のある方向に導くこともせず
ただ阻むような人とお仕事したってどうにもならん。
お前がやりたくないからって私もそうだと思うなよ!

ここはまだ終わりではない。

及川徹を考える: 「及川徹は天才ではない」

Music: 幼鳥 from TVアニメ『ハイキュー!! セカンドシーズン』- 林ゆうき

古舘先生に
何かの拍子にお会いするような奇跡があるとしたら、
まず感謝を伝えて、次に、
及川徹は
果たして本当に天才ではなかったのかという話を伺ってみたい。

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最終話を受けて
海外のありとあらゆる国と地域にいたハイキューファンは
述べなければならないありがとうとさようならの儀式を
いかにもハイキューファンらしく元気に執り行い、
その過程で、
アルゼンチンにある実在のチームに及川が在籍しているのではないかと思わせるような
まさにムーブメント ← を巻き起こしたりした。

ハイキューという作品は
当初、典型的なスポーツ漫画を読んでいると思っていた多くの人が想像していたよりも遥かに広大な地平線をカバーして
高校の先にある未来を当然のことのように描き、
それが真に計画通りの運びであることを見せつけるように
伏線の全てを目もくらむような美しさで回収して昇華し、
これ以上ない健康体で見事な着地を果たした。

登場人物の中で、
無理も無茶もなく海外に進出していったキャラクターは主人公を含め数多くいたのに
現実と虚構の曖昧をぶち破るような形で召喚をされた存在が
結局は及川徹であった。

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基本的にヘラヘラしている。

私の中で、すでに格別だったハイキューという作品が別次元に跳ね上がった瞬間は
主人公たちが越えるべき壁であった及川というセッターを
その時点ではまだ大したキャラクター性を持たなかった岩泉一が語り始めた時だった。

読者として、視聴者として
作者の思うがままに及川を知ることのできる立場にあっても
あの時期の話を本人から聞くことは終ぞなかった。
岩泉という、及川に許された立場にある人物を通じて、
私たちは彼の深淵を知る。

振り返って考えると、
及川自身が彼の視点で自分の才能を語った場面というのはとても少ない。
彼が天才ではないという言葉も
本人が口にしたことは厳密には一度もないと思う。(…あったっけ?)

ただそれに類することを言ったのではないか、という場面は確かに存在していて、
そのシーンこそがこれに繋がる。

「嘆くのは全ての正しい努力を尽くしてからで遅くない」

その言葉を追って、及川は海を渡り、国籍を変える。

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ときどき、天才というものの限定性について考える。
スポーツの天才、とか
バレーの天才、とかいうような漠然とした安易な天才などこの世にはいなくて
天が与える才能はもっと細かくピンポイントで融通の利かないものなのではないかということだ。

彼が天才ではないという描写は、あの場面では真実であったと思う。
けれどそれはもっと厳密にいえば、セッターという技術において、及川は天才ではないということだったと思っている。
及川さんの言葉を借りるなら「ボール回し」という
技術の上でもさらに細かくテクニカルな部分に限定されていたかもしれない。

北さんによれば、天才というのは
1から10ではなく、AからZをやったら面白いのではないか、という発想を持つやつらのことで
それに失敗しても、嫌われても、疎まれても、やらずにはいられなくて
人が大事にするような何かを蔑ろにしてでも突っ走る傾向がある。

同じ世界線で語られる最終話に、
アルゼンチンにわたり、アルゼンチンの国籍を取り、アルゼンチンの代表になった及川さんが登場した。
立派な天才なのではないかと考える。

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才能は開花させるもの
センスは磨くもの

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及川というキャラクターを考えるときにいつも思い出す作品がある。
「神が及川徹を創る時」 一ノ瀬ゆま先生
灼熱のごとき野心、という言葉は、
私の中に散らばっていた及川徹の欠片を見事に終結させて一つの形ですとんと腑に落としてくれた。

彼は、挑みかかるということへの執着が強いキャラクターだと思っている。
(挑むとか挑戦するなどという落ち着いた表現では間に合わない。)
牛島を導いた「強いチームに入るといい」という資質向上論を鵜呑みにして動くことは出来なくて、
あくまでも、
強敵と対峙する存在としての自分と、その強敵と戦うことで確かめられる成長へのこだわりを感じる。
それは、中学というまだ選手として幼い時分から、
勝つことのできない相手に事欠かなかった彼だからこそ紡ぎ出すことのできたストーリーでもある。
及川徹は、優勝したかったのではない。
それを目標にできたら、彼の人生はもっと凡庸だったはずだ。
しかし彼は乗り越えたかった。克服こそが勝利を意味した。
白鳥沢には行けなかったのだ。

「お前はたぶんじいさんになるくらいまで幸せになれない」という呪いは
挑み続けることがアイデンティティになってしまった及川を
的確に読み解いた言葉なのだと思う。
たとえどんな大会で勝っても完璧に満足なんてできない。

及川徹の才能は
例え誰を相手取ってもコートを制すという
挑み続けるその野心にこそあったのだと思っている。

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超現実要素の少ないハイキューにおいても、
少年漫画パワーが発揮されたプロットはいくつかあったと思っていて、
変人速攻は別枠としても
私にとっては
ビーチバレーからインドアへの逆転向、
そしてアルゼンチン代表Oikawaが挙げられる。

突然自分の話になるが、
スポーツの業界に身を置いていて、領域的には人文社会学寄りなので、
特に及川さんの帰化という展開については現実を知りすぎていて、とっさには素直に飲み込めない部分も正直あった。
懸念としては、及川さんがアルゼンチン人になりたくてアルゼンチンの国籍を取得したのであって欲しい、ということだ。
バレーがらみのいくつかの動機があることはもちろん自然だし現実的なことだけど、
選手としてだけではない、自分という人格を形成するものの全てを包括的に考えたうえで、
国籍は日本でなくてもいい、アルゼンチンがいい、と思ったのだといいな、と思っていた。

及川さんはいま、
海外ファンの界隈で、Argentotoというあだ名を与えられている。
スペイン語では、名前の最初の音を繰り返して愛称とすることがあるので、TooruはTotoになり、
アルゼンチンでは「アルゼンチンの」をArgentoと言うので
この二つが組み合わさってArgentotoとなった。
アルゼンチンの徹くん、ということだ。

CA San Juan Voleyという架空のチームでプレーしていたはずの彼は、
いつの間にやら実在の強豪UPCN San Juan Voleyから、
背番号入りのユニフォームを与えられ
現実の監督やらセッターやらから歓迎のメッセージを贈られている。

フィクションの読者としてこんな自分をどうかと思うのだけれど
私はこの現実をみて、
そっか、及川さんアルゼンチンに行ったのか、と
掌をくるんと返して、なんだか素直に受け入れてしまった。

こんな風に受け入れられたらそりゃあ嬉しいだろうし、居心地もいいだろうなぁと。
きっと、バレーを抜きにしても、例えば選手を引退してから後も、
アルゼンチンで、アルゼンチンの人として、彼らのコミュニティに溶け込んで生活していたいと思ったんだろうって。
考えなしに立ち得た岐路ではなかったかもしれないけれど、
それなりに自然な選択だったのかもなって。

及川徹という人物を振り返った時に、
彼の選択を示唆する言動はそれこそ数年前から一貫していたし、
たとえやりすぎ感はあっても
有り得ない、とは一概には言えないだけの説得力を、彼の人物描写は積み上げてきていた。
ひとえに古舘先生の手腕が見事であったということだと思うけれど
それを受け入れて喜んでいる現地の皆さんの声とか、
むしろ、及川ならやりかねない、という楽しさと面白さが、この祭りをここまで焚き付けたのだとすると、
ハイキューという作品の強さと、
この傑作が繋いでくれた世界のファンの結束力を想う。

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ハイキューに出てくるみんなはそれぞれに愛嬌があり
弱さと強さがあって
私はそのすべてを愛している。

及川徹という人物が描かれる様を見ていて思う。
努力を恐れないということが、
私たちにはこんなにも難しい。
どれだけ傷を負っても、前に進み続けることの
気の遠くなるような労力を思う。
でも、連載が終わってからのこの1週間、
果てしない挑戦を続ける人の姿は
こういう風に人を熱狂させるのだと知った。
こういう風に、次元の枠を超えて、世界の人を動かすことだってできる。

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明日のジャンプにハイキューはもういないけれど、
自分の力はこんなものではないと胸に刻みながら
いろんな場所で何かに挑み続けるハイキューファンのいる世界で
私たちはこれからも生きていくのだ。

これからも何だってできる。

ハイキュー: 大切なことはすべて君が教えてくれた

Music: 大切なことはすべて君が教えてくれた/Prelude - 林ゆうき

ハイキューの連載が今日終わった。
これだけ長い間応援してきた作品なのに、
書き残しているものがツイッタの悲鳴くらいなので不思議だ。

でもそれだけ主観的にのめり込んだ芸術でもあった。

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ハイキューにはアニメから入った。
最初は確か黒子のバスケの漫画を読み終わり、アニメに移ろうかとちょっとだけ見たけど、
せっかく見るなら展開を知らない、全く新しいスポーツアニメにしようかなという出来心で
安易にハイキューをぽちっとした。
ホントに軽い気持ちだったのを、嫌に明確に覚えている。

すでにs3まで放映を終えていた時期だったけれど、
特に評価も評判も知らず、完全にまっさらな状態で臨んだ。

1x01の最後のシーンで、あー、そういう方程式で行くやつね、はいはい、と思った。
余裕でこなせると思ってたんだ。

スガさんが、
「迷わず影山を選ぶべきだと思います」
のスピーチをしたときに、
あ、これはやばいやつを見ている、と思いながら目じりを拭い、
1x17の伊達工戦で旭がパイプで出てくるくだりの音楽に大泣きして林ゆうきさんを知り、
飛雄の「ちゃんと、みんな、強い」で枕を抱えて嗚咽を上げ、
取っ組み合いでしゃがみ込んだ地べたから
武田先生に諭されて二人が立ち上がる
アニメーションの丁寧さに世界がにじんで前が見えなくなり、
田中一成さんの「そうやって、強くなる」から、
みんなが無言でごはんを食べながら涙するシーンをバスタオルを目にあてて鼻をすすりあげながら見ていた。

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??
泣かされてばっかだな。
けっこう笑ったはずなんだけどな。
おかしいな。

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ご多分に漏れず、3x04の月島が好きだ。
好きすぎてユニクロでTシャツを買った。
今からアニメの音駒戦が楽しみでしょうがない。

彼の物語は、ハイキューの人気の大きな理由の一つじゃないかと思っているけど、
そもそもハイキューという物語が、彼の問いを突き詰めて出来上がっているものでもあると思う。

たかがバレーに、なぜそんなに一生懸命になれるのか。

この問いの切ないところは、
本当は彼だって一生懸命になりたいのだ。
私だってそうだ。
何かに一生懸命になりたい。
そんな風に熱を上げて、夢中になって、好きでたまらない何かに
時間を忘れて没頭してみたい。

この作品がくれたヒントは、
Chaoticな木兎さんの形をしていた。

まず、ちょっとだけ上手になってごらん

木兎さんは、たかが、という気持ちは間違っていないと言った。
でも、貴方だって一生懸命になれる。そういう瞬間は来るんだよって。
これが私の世界に与えた勇気の大きさは計り知れない。
最終解はこうだ。

楽しいからだよ!

そんなメッセージを至上にしたスポーツ漫画は、今までになかった。

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スポーツがなぜ楽しいのか。
バレーがどうして面白いのか。

ハイキューは、勝利の喜びより、
いつもそれを大切にしてきてくれたと思う。
勝つことは嬉しい。
目指したいことでもある。
けれどそれは目標であって、原動力ではない。
もっと純粋で、等しくて、誰もが共感できる何かで、アスリートは動いている。

夢見るものはみんな違うし、
いつか道は分かれていくかもしれない
けれど
きっと
同じ方向を見ているときと同じくらい
同じ燃料で動いているチームも気持ちがいいのだろうと想いを馳せる。

高校生という時間の一瞬は、
目標よりも動機で繋がる部分のほうが本当は多いのかもしれない。
3年間という執行猶予のある体育館の中で
同じ熱を同じ原材料で燃やして、そうして溶かされて一つになる。

ネットのこっち側にいるやつ全員もれなく味方なんだよ。

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最終章こそ、ハイキューの真骨頂で、
毎日が最終日みたいな熱量だったけど、
ストーリー的には大きなプロットがないのでアニメ化されるかどうか、今から心配している。

あの人に騙されて気付いたら借金1000万円の黒尾くんは動きが付くべきだと思うし、
何より24歳設定のcv.中村悠一になるべきなので、
最後の最後までアニメになって欲しい。

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競技というものの観点から、
ハイキューは初期のころから「終わり方」について繊細に触れてくれていたと思う。

1x16の勝者と敗者は、アニメのハイキューの中でも有数の秀逸なエピソードだった。
悔しいことは、凄いことなんだよ。
手放しで持ち合わせられる感情ではない。
何かを目指すとか、何かに熱を持つというスタートラインは
毎日をただ生きていて立てる場所ではないのだと
高校時代をはるかに通り越して今更ながらに思う。
ちょっとだけ上手になる、たとえささやかでもその努力があって、
初めて触れることのできる明確な一線。

武田先生の言葉は、どれも心に近く抱えて生きていきたいと思っているけれど、
今この瞬間も、「バレーボール」だ。
というあのセリフは、忘れ難い。
君たちの何もここで終わらない。これからも何だってできる!
と共に、ハイキューという作品に古舘先生が許した、懐の深さを感じる。

高校3年生は、部活に限らず何かと最後感が強い。
でも続いていくし、
生きていくし、
同じようだったり、もしくは想像したこともなかったりするような、
人生の困難は続いていく。

選手を引退したから経験しなくなる、振り返って気付くたくさんの中に、
きっと「今この瞬間もバレーボール」はあり、
高校を卒業して、そうして続けてきた旅路の中に
恐らく「何もここで終わらない」は存在している。

どれだけ今この瞬間の試合で、
ラリー、ブロック、ディグ、トス、スパイクの一瞬に勝敗が掛かっていたって、
そこにかけるために費やした努力からヒントを得ながら、人は生きることを続けていく。

高校の体育会系部活に育ててもらったと自認する人で、
社会人として文化系のプラットフォームに着地して、
その威力を万人に伝わる言葉で発信できる人はまれだと思う。
古舘先生だから描けた作品なのだと、敗北の描き方をみて特に強く感じる。

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来年に延期された大きなスポーツイベントに関わる仕事をしている。

佐久早聖臣の、「理想の最後」のモノローグは、
金を出してデジタル版を買い、別保存するくらい
このタイミング、この角度で、ドンピシャだった。
個人の聖書の一節として心に刻んでいきたいと思っている。

前述のスガさんに代表されるように、ハイキューは、
不遇を前提条件としたときの、
しかし最大の努力の意義と意味を大切に、愛を持って扱ってくれた作品だったと思う。
結果として実るかどうかは別に置く。
努力は怠らない。
当然のことのように全力を尽くす。
なぜか。

今までどのような媒体のスポーツも説明してくれなかったその理由を
教えてくれたのがハイキューだと、私は信じてやまない。
結果的には木兎さんの「その瞬間」に帰す。

楽しいからだよ!

目標に手が届かなくても、思った自分になれなくても、
過去のあの瞬間、頑張っていた誰も可哀そうではない。
だから、ハイキューに悲壮感は一度だってなかった。
補欠でも、天才でなくても、
負けは今の力の認識であって、何かの否定ではない。
菅原孝支はどの過程にあってもかわいそうではなかったし
及川徹は畏怖すべき存在であり続けた。

「その瞬間」を、ただ努力で繋げていく。
そうして、
ただ注意深く手を尽くし
運良く。
「いつ終わってもいい」と思っていたい。

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考えれば考えるほど、言葉にしておきたい思い入れのある作品を
過去3年ほど、
ただただ享受し、美味しいトコ取りをし、勇気と元気だけをもらって
毎週楽しく幸せに過ごしてきた。

どこに行っても、
どんなおいしいものを食べても、
どんなきれいな景色を見ても、
それはハイキューでもらうパワーとは同じではなかったなぁ。

稲荷崎戦での
日向のディグを思う。
あの時私はイギリスにいて、
職場のある大学のさびれたカフェテリアで
ランチにしてはちょっと高い中華料理屋のチャーハンを食べながらケータイで見ていた。

手のひらサイズの画面に映し出される日向の両腕を見ながら
お昼ご飯を中断して、ひとしきり泣いた。

この今も
あの今も
どこかに届いて
何か思いがけないような瞬間を
生み出すのかもしれない。

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楽しく。
出来る努力をしながら
ちょっとずつだけ上手になって
勝負事を楽しめる強さをかき集める。
そうして喜んで
はしゃいで、
進む。

ハイキューは、バレーボールの話でありながら
バレーボールだけの話であったことは一度だってなかったと思う。
記憶に残っているバレーボールの場面は、
バレーボールに何の関係もない勝負の場面で私に勇気をくれるだろう。
これからも。
いつまでも。

お世話になりましたハイキュー。
ありがとうありがとう。

影さえも振り切って

Music: 【MAD】ハイキュー!!×決戦スピリット - edited by sarako

英語圏で過ごしてから帰国したのは2回だけど
1回目の時に、英語を忘れてしまう、出来なくなってしまうと怖く思った一方で
2回目の今回は、そんなこと深く考えることもなかった。

全般的に、やったことがある、って、本当に強いな、と思った経験だった。
二度目があったことで、そういう気付きが得られたこと自体も貴重だった。
「母国である日本に、外国から、少し被れたり影響された自分が帰ってくる」という状況を
一度経験しているということは強い。
見失った日本の常識や、当たり前のラインなんかを、
一度目はびくびくしながらなんとか探し当てて位置確認をしたいと願ったはずなのに、
二度目は、自分が知らない常識や当たり前も世の中にはある、という変な割り切りがあった。
単純に大人になって、己の限界を知っただけかもしれないけど。

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今日久々に、
うわー英語できなくなった!と思ったので書き残しておく。

帰国してしばらくたったからとかではない。
帰国しても、職場では英語が主な公用語だし、お客様とも英語なので、そこでの変化はなかった。
ホントに、ここ二週間くらいの話だと思う。

諸事情から在宅勤務が続いている。
たまたま
今進行しているプロジェクトもなく、
よって毎日あるチームミーティングも報告は2分くらい。
チームメイトとも簡単な確認をチャット機能でちょこっと話すくらい。
おしゃべりをするということが、とんと無くなった。

6月中旬くらいまでは海外ドラマとかも見てたんだけど。
ここのところのしばらくで、
娯楽に日本語のアニメを見て、読書に日本語の二次創作を読んで、暇つぶしに日本語の動画を見ていた。
脳みそが能動的に吸収するものがおおよそ日本語だった。
たまに見るリアクション動画が英語だったくらい。

そこに来て致命的だったのは、
英語で何かを表現するということが無くなったからだと思う。
アウトプットは大事だよねぇ。

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今日久々にお客様とのネット会議だったのだけど。
単語が出てこないっていうか、
フレーズを丸っと忘れる。
One of the things I wanted to bring to your attention is,
みたいなことが言えなくて、
Attention...um...I wanted. bring to your.. is. this. みたいになる。
とある場面で使いたい、直訳すると日本語では意味は分かるがなんか変な、
そういうフレーズがぽーんっと飛ぶ。

例えば単語が出てこないとかだったら、別の言い方とかで乗り切れるんだけど、
こういうものは忘れてしまうとどうにもならない。
どういう思い出し方をしたらいいのかも想像がつかないし、
会話の上で向こうもなんとなく何が言いたいのか察してくれることも多いので
何とか雰囲気で乗り切る。
特に大きな支障はない。
でも自分はやりたかったことが出来なかったので悔しい思いをする。
ああああーーー。

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特に焦ったりはしてない。解決方法は分かっている。
英語の表現というものについて、思いを馳せたり、
英語で自己発信するようなそういう場面を、作ればいい。

ひとまずShadowhuntersにドボンしたときに溜めたListening logでもやろうかな。

A ticket to anywhere

Music: Fast Car - Jonas Blue ft. Dakota

2か月半ぶりにオフィスに行った。
本来目的は別の建物への外出だったので直行しても良かったんだけど
資料を手持ちしておきたかったので主に予習と印刷作業に立ち寄った感じ。

何を着たら良いのだったかとか
いつも朝何時に目覚めて
それからどんな動線で何をしてたかとか
カバンのどのポケットに何が入っていたかとか
なにも思い出せなくて、前日の夜にめっちゃ焦った

洋服を決めて、
カバンのチャックを閉めて、
ベッドに入ってブランケットを引っ張り上げる。
ちょっと遠足に行く前の気分に似ていた。

明日は、
いつもとは違う一日を過ごす。

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自転車を引っ張り出して走り出した朝は思っていたよりも涼しくて
ベランダで感じる日差しの強さで決めつけていたほど夏ではなかった。
そうだった、
まだこれから梅雨だものね。

季節の順番を忘れている自分。

行きかう人たちの中を走りながら
覚えているよりも遥かに切迫した緊張感でブレーキバーに手をかける。
毎日ってこんなにいっぱい音があったっけ??

うるさいとも少し違う、情報の多さに困惑する。
隣を走るエンジンの音
信号が変わる
人が歩いている
子供がいる
右見て
左見て

後ろ
なんだこれ!
疲れるな おい!

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リモート飲み会で同僚の子たちと
自分の机が何棟の何階にあったか忘れた!
みたいな話をしてたけど、
自転車を置いて迷わずに目的地にたどり着けたよ。

うちの部署はやっぱり誰もいなくて(不可避な案件以外は在宅)
ぽつんとしながらパソコンをパチパチして現場に出発したのだけど
お昼ごろ、帰宅前に一回寄ったら
3月中旬に着任した同僚が来ていた。

顔を合わせたのはホントに数日で
それ以降はずっとネット越しだったんだよなぁ。
元気そうだった。
良かった。
ハグしたいような気配もあったんだけど不可思議な距離感だった。
結局しなかった(笑)。

かなり長いこと立ち話をしていた。
午後イチでリモートでのミーティングがあったので、
お家に帰って準備したかったんだけど
アジェンダのない会話が久しぶりで
思いついたことを何でも言えて
話したいことを何でも話せて
クスッとしたり
首を傾げたり
頷いたり
今まで見えなかったものを目の前に見たら
午後のミーティングは遅れてもいいかなぁとか思ってしまった。

頑張って自転車こいで帰って来たけど!

半日しか外に出てなかったのに
夕方にめっちゃ眠くなった。
やばいな、大丈夫かな。
今までどうやって生きてきたんだ私。

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ただ会社に行っただけなのに
ものすごく仕事をしたって気がする
雰囲気だけじゃなくて
今日の午前中は2か月半ぶりの集中力を発揮した
楽しかった
気持ちよかった
わぁい!

なのでビールを飲む!

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通勤時間がゼロというのは手放しがたい
けど
やっぱり
作業を進めるために整えられた環境で
関係のあるようなないような
ちょっとした小話を聞きながら
笑い合いながら仕事をしたい。

そんな日はもう来ないのかもしれないけど
それが幸せなことだと
そうではなかった日々を経て確認できたことは
いつか何かの力になる気がしている

Uncomfortable Conversations

Music: Your Hand In Mine - Explosions in the sky

私のタイムラインにジョージ・フロイドが登場してからしばらくの間、私はそれを別の誰かの追悼記念日なのだと思っていた。これまでにあった幾つもの、警察による不適切で致命的な行いによって失われた命の一つを思い出して悼んでいるのだと思っていた。しばらくたってこれが新しい犠牲者なのだと知り、とても不思議なことに、そのとたん、もうそれ以上は聞きたくないな、という気持ちでしばらくSNSからそっぽを向いた。

そもそもそういう選択肢があるということが贅沢なことで、無関心こそが最大の罪とするマザーテレサの観点からすれば、この選択は大いなる罪悪であったのだろうと理解している。

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ユヴァル・ノア・ハラリは、サピエンス全史のなかで、人間のもつ「虚構」を共有する能力について話していて、ずっとこれのことを考えている。人間という動物の社会では、会社や法律という、実態としてそこには存在しないものを、みんな了解し、認識し、共有している。仕事でワークフローとかマニュアルとかを作るときに痛感するのだけど、そのコミュニティの制度やシステムというものは、いつの間にかできているパターンと、きちんと記述されているパターンがあって、それを上書きする形で新しい制度を構築する際にはそのどちらも網羅しておかないと、新たな虚構として共有されない。共有されてもその適用範囲に制限があったり、どこかで解釈違いがあったり、何か不都合がある際には以前の虚構が顔を出してきたりする。

私がSNSにもう一度目を向けるようになって、最初に見た動画の一つがトレバー・ノアのものだった。スクリプトなしでこのレベルの理路整然が達成可能なのかと驚嘆する内容であったのだけれど、見終わった後にしばらく考えていて思ったのは、彼はひょっとしてデモだけでなく略奪行為まで含めて、それが今回の事件への反発行動であるのかを、結果的に説明してしまったのではないだろうか、ということだった。ミーシャ・コリンズが行ったインスタライブのパネルでも、略奪行為について話は出ていて、どれだけ言葉を尽くしても響かない状況においては経済的損害が最終的な共通言語である、という説明に納得はした。ただこの発言はあくまでデモがエスカレートしてそうなってしまう状況を分析していたものであって、ジョージ・フロイド殺害という具体の事件との関連性には触れられていなかった。

トレバーは、彼の話の中で、社会とは住人がお互いの間で交わす契約であり、共通のルールや理想、生活様式を了解して契約を結んでいる状態、としている。これをハラリのいう「虚構」のことなのだと考えると、彼の話を私が解釈したところでは、「虚構」によって虚構の番人であると定められた警察こそが虚構を犯したため、その行為に反発する勢力も、虚構に従順であることに価値を見出さなくなった、暴動をせずにいて略奪をせずにいてそこに何の意義があるのか?、ということなのかと思う。私は当初から、デモの発端と矛先が警察という集団の不適切な行いであるときに、警察という組織が不適切行為に備えてデモの場にいるということがすでに論理的に破綻している気がしていたのだけれど、その理由がすこし分かった気がする。

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実は一番最初に見た動画はミーシャのパネルだった。当初、ミーシャとアクレス夫妻とパネリストがディスカッション、という雰囲気に見受けていたので、こういう話を俳優さんが仕切り回すって大丈夫なんだろうかと思っていた。アクレス夫妻の立ち位置が謎だったし、どういうトーンで見たらよいのか分からなかった。結果的には、ミーシャ・コリンズという人の弁才を見たくて恐る恐る覗いてみた感じだった。

ミーシャのパネルが私にとって良かったのは、まず何よりも平和で教育的だったことだと思う。自分は、SNSやネットで、こういう形で発信される情報なら、感情的に打ちのめされず冷静に理解しようと努めて受け入れられる、と気付くことが出来たのは大きかった。パネリストの皆さんがとても知的な方で、今起こっていることがこれまでと違うように感じるのはなぜか、実際にはなにが違うのか、それはなぜか、明確な言葉で説明されて分かりやすかった。多様な解釈が起こり得る状況でそれを認識している人は、解釈に幅が出ないよう気づかいのある表現をすることが出来ると思う。シンプルでクリアな彼らの言葉はとても勉強になった。ただ、それとは別に、もっと根本的なレベルで、ミーシャが設えたフォーマットから学ぶものはとても多かった。

いまSNSやいくつかの動画を見ていて、繰り返し聞く言葉がある。Educate yourself (もしくはlearn)だ。ミーシャの動画が始まった時、アクレス夫妻は、旦那さんのほうが、話を聞いて学びたいという気持ちで参加している。と述べた。そしてこの自己紹介の後は完全なる聞き役に徹し、何かコメントをするわけでもなく終了した。奥さんに至っては文字通り一言もしゃべらないまま終わった。ミーシャも質問を4つほど投げかけて発言者を指名するだけで、自分の解釈を述べたり自論を展開することはなかった。私はこれを見て、思ってたのと違う、と感じたのだけど、それと同時に、ほっとした自分を見つけた。こういう参加の仕方、アリなんだ、と思ったのだと思う。

実際には時間の都合だったのだろうし、この動画の一番大事なところがそれではなかったことは分かっているのだけど、話を聞くだけでもよい、という行動の妥当性の確認ができたことで、今の状況全体に関して、私は肩の力を抜くことが出来た。一歩目をどこに踏み出せば良いのか、現実的な目星がついたのだと思う。その時までの自分が無関心という罪を犯していたとしたら、行動にはまだ結び付けられないし、具体的に声を上げることもしてはいないけれど、関心は持っているという状態には進んだ。今のアメリカ社会の動向に関して「学ぶ」という言葉を使う時、その教科や方法にはとてもたくさんの種類があると思う。私が主に学びたいのは、人種差別の会話をする時、どういう作法が求められるのだろう、というところで、それはその会話をする人たちを見ることで得られる知見なのだと知った。

高校を卒業してアメリカに渡った時、語学学校で教えられたことの一つに「宗教と政治の話はしない」があった。言及されなかった枕詞は「今の英語レベルで」だったのだろうと後に考える。悪気無く自覚なく言葉や表現を間違えるだけであらゆる形の不利益に発展しかねないので迂闊なことはしないように、という意図だったのだろうと思われる。結論から言うと、私は比較的積極的に宗教の話はした。語学学校のプログラムで練習相手に割り当てられたアメリカ人が、敬虔なクリスチャンで、かつ英語の勉強を積極的に手伝ってくれる奇特な人だった。日曜学校に連れて行って貰ったり、大学のバイブルスタディのサークルに連れて行ってもらったりした。私クリスチャンじゃないよ、お邪魔していいの?と言ったら、良いんだよ、英語の勉強になると思ってるだけだから、と言われた。居心地が悪いようなら無理しなくていいよ、とも言われた。未知の世界に入り込むことは居心地が良いことではなかったけれど、それはアメリカに来てしまっている状態で今更のような気がした。ただ、英語が心配だ、と伝えた。会話をする時に、失礼なことを言ってしまうかもしれない。それはわざとではないけれど、それについて正しく謝ることも出来るかどうかわからない。

彼は、そうなったら僕を呼んでくれたらいいよ、と簡単なことのように言った。しにくい質問があれば、それも僕に聞いたらいいよ。僕も貴方の言いたいことが分からなかったり、発言の意図を確認したかったら、質問をするね。

大学に進学するまでの4か月くらい、カフェに行ったり遊園地行ったり野球を見に行ったり、いろいろ「普通の」遊びもしたけど、日曜学校にも彼が行くときは一緒に連れて行ってもらった。渡米直後の当時の私の英語力で、この時の経験から身に着いた宗教の知識は残念ながらほぼない。ただ私が学んだのは、自分が一部ではないコミュニティの中に入り込み、そのコミュニティを知ろうとするとき、どうあがいても出来る最初のことは、観察し、質問をする、という以外の何物でもない、ということだった。

今はまだ、質問は生まれてこないけど、観察し理解に努めることはできる。聞き手が、自分の立ち位置や、会話の目的を説明する時の表現の仕方だったり、話を深堀りしたいと提示する質問の観点だったり、相槌だったり、感想や感謝の述べ方にはいくつかのパターンがあって、それを自分の引き出しに出来たらいいと思う。いつか質問をしたくなったときに、この話をする場所に置かれたときに、自分の目に映っている虚構と、相手の目に映っている虚構とを、できるだけ正確で平和な形で、言葉で表現して確認し合える力を持っていたい。

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今の状況を見ていて私が不安に思うのは、終わりが見えないことだと思う。いつまで続くのだろう。何が起こればゴールなのだろう。

マルコムXの言葉で、背中に刺さった9インチのナイフを少し引き抜いたからと言ってそれは前進ではない。そのナイフを全部抜き去ったとして、それは前進ではない。前進とは、その暴力が引き起こした傷を癒すことをいうのだ。というのがある。今この状況で、傷を癒すとは何を指すのか、前進してどこまで進めばよいのか、それはどの程度のタイムラインで目指すものなのか、肌感覚が全くない。

分かっているのは、虚構にひずみが生まれていて、これを書き直す必要があるということだ。だけど法律のような文字で書かれている虚構に則っては、デレク・ショーヴァンと3人の警官は逮捕されていて、叶うべくは今後公正な裁きがあることだと思う(願わくば)。しかし文字になっていない虚構を私たちはどう書き直していけるのだろう。理想論は比較的分かりやすい形で私たちの頭の中にあって、それを目指して進みたいことは明確だ。だけどそれを実現するために起こらないといけない制度的な変化というものがどういう形で起こるのか、どうも具体的に想像できないことが、不安で怖いのだと思っている。

以前、タイムラインに流れてきたつぶやきで、弱い人の立場を守れと主張する人の中にたまに、しかし弱い人が強くなることは許さん、と考えているような人がいる。というのを見たことがある。ミーシャのパネリストの中にも、今起こっていることはある種の利益の交渉であり、これまで白人が占めていた立ち位置を黒人に譲るという変化を求めているのだ、という話をしていた方がいた。社会の不平等を正すとき、ただ弱者が力を得て解決、ということはないのかと思う。何らかの形で強者が力や特権や、「当たり前の日常」を失うくだりがあるはずだ。キング牧師の時だって、黒人が選挙権を得たからと言って白人が投票出来なくなったわけではないけれど、全投票数における白人票が割合として減るということは、つまり白人にとっては力を失うということだったのだと思う。現状の文脈に置き換えた時、これらがどういう形のもので、誰のどういう損失を示唆しているのかを思い描けないことが、漠然とした不安とぼんやりとした共感で感覚がとどまってしまう理由なのかと思う。

平等とは何か。公平とは何か。平等で公平な社会とは何か。実在しない概念や価値を築き共有することは複雑なことだけれど、会話からしか発生しないことでもある。物理的な破壊や行動で象徴的に示すこともその会話の手段の一つとして存在はしていて、場合によってはそれが効果的で効率的なこともあるのだろう。けれど最終的には、言葉で記されずに共有された虚構はこんなにも脆いのだということを身をもって学んでいるのが今のこの場面なのだとも思っている。言葉の意味や文脈は時と共にうつろうこともあるけれど、私がどういう人間で、貴方がどういう人間で、ほんとうは共に一つの社会に住んでいるはずの私たちの世界はそれぞれどんなもので、どのように共通認識を改められるのか、安心とは何か、自由とは何か、会話を積み、言葉をひとつづつ共に定義していくしかないのだと思う。

Where'd you wanna go, how much you wanna risk?

Music: Something Just Like This / Hungarian Rhapsody No. 2 - The Piano Guys

Inspired by - ハイキュー!! 394話


最近ずっと
Shadowhuntersのキャストの皆さんのおもしろインタ動画を見たり
Supernaturalのコンベンションの映像を見てその繋がりの強さに涙したり、
ArrowのStephen Amellの過去のインスタライブを見たりしている。

仲が良いというのは素晴らしい。
誰かが楽しそうであるというのは、それだけで人に前方を向かせる。

何を探しているのかは分からなかったけれど、
凄く安心した気持ちでいられた。
すでに終わりに辿り着いた、暖かいお話を見ている。
怖いことなんて何もない。
楽しいままで終わっていく。

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「理想の最後」
というものを考える

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夏に本番を迎えるはずだった私の仕事は
ひとまず来年に持ち越されていて
ホントにやるのかなあという気持ちが強くていた。

コンテンツとしては不要でも不急でもない。
本当に意義のあることは他にあって
それを私は知っている。
ずっと知っていた。

お仕事というのは不思議なものだと思う。
こんなに苦労して調整して
いろんな人を説得して、説明して、
本当に意味があるのだろうかと幾度も考える。
何をやっているんだろう。

面倒なことばかりのわりに、
生計を立てているということの以外に、人の命にも生活にも携わってはいない。
本当に本当に大切なことは
他に絶対にあるんじゃないのだろうか。

私は自分のしていることの意義を信じていない。
価値を信じていない。
この作業には意味があるのだと、
心を添えて口にすることなどできる気がしなかった。

面白そうだと思ったその気持ちだけがここにあって、
誰も何も助けたりはしないこの毎日を
誰にも言わずに
ただ恥じていたのかもしれない。

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その日々が
そうして足掻いて這い蹲って重ねてきた時間が
何にもならないまま終わってしまうのかもしれないというのは
今思い返すととんでもない恐怖だったように思う。
持ち越しなのか、中止なのか分からない時期が3月くらいにしばらく続いて、
どっちでもいいから早く決めて欲しいという気持ちだけがあるように思っていた。

ほんとうに考えていたことは
いま思い起こしてみればいろいろある。

形にならなかったこの努力に
いったい何の意味があるのだろう?
準備の全てはしたけれど
本番には至らずに終わりました。
努力が正しかったのかどうかすらも分からない。
それが何になるのだろう?

どこにも行ける気がしない、と思った。
これが終わって、
ここで終わって、
終わり、そしてただ
先が途絶えると思った。
未来が終わる。

時限的に明確なゴールが私にはあって
あったのに
それはこの夏で
今年で
それはもう来ないのだと考えた。

何にもならない。
今までの漠然としたこれらは
このすべては
途中だった道のりは
どこにもたどり着かなかった。

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「笑って終わりたい」
「勝って終わりたい」
その方が良いけど
どうでもいいとも思う

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人生の小話の
ネタにはなると思った。
面白いとも思った。

プロジェクトが延期になって
それから先のことはよく覚えていない。

在宅勤務で
自室にこもって
楽しいものを見て
面白いものを聴き
美しいものに触れて
どこかに着地しようとしていた。
どこか安全なところに行きたい。

語り終えられたストーリーを見返すとき
そこには安らぎがあった。

無事に終わったんだなぁって。

何て羨ましい。

ゴールする。
それは
凄いことなんだよ。

-----

去年の夏
イベントごとがあって、
久しぶりに信じられない忙しくて、
手持ちの時間のたくさんを仕事に注いだ。
理不尽なこともたくさんあったけれど
時間をかければ解決したり糸口を見つけたりすることはできた。
誰も意地悪ではなくて
わざとではなくて
ただ足りなかったり及ばなかったりの集合体を
こうしたらああしたらの集合知で戦う、正当な試合だった。

思い返して考える。
あの時、
イベントが行われなかったら、
私は
私のあの時の努力は
なんでもなかったんだろうかって。

今あるように
手の及ばない曲がり角や行き止まりはこんなに突然やってくる

叫ばなくたって
私は悪くないことをみんな知っていて
心配することのひとつもないのに
どうしても分かって欲しくて いくつもいくつも寝返りを打つ
どこかにたどり着くと思っていたんだ
何かを達成できると思っていたんだ
この先にゴールがあると思っていたんだ

なんで
どうして

けれどその時が来なくても
来なかったとしても
知恵を絞ったことを私はきっと説明できる
説明するだろう
去年の夏、自分は頑張ったのだということには自信があった
たとえイベント自体が出来なかったとしても
出来る全てをやったことを
何とかして説明しようとする気概はあるように思える。

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今日も 明日も
最後の前の日も
注意深く 手を尽くし
運良く
「いつ 終わってもいい」と
思っていたい

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SPNがきちんと撮影を終えられたらいいなと思っている。
嵐さんが国立をできたらいいなと思っている。
自分だって。
楽しいと思うことを
楽しいと思うように
描いていた未来に向けて走り抜けられたらいいのにと思う。

けれどそんなことはもう分からないから。
この手で変えられないから。
未来というのは
来ないのかもしれないから。

達成できなくてもいいよ

満足できなくてもいい

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Just something I can turn to
Somebody I can kiss

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何かを成し遂げるという概念には、
到達したり満悦したりできるということには、
もしかしたら根本的に時限的な制約があるのかなぁって思う。
努力して積み重ねて大事に毎日を進んで行ったら
その日やその時やその瞬間が来るという大前提のもとに想定された祝福なんじゃないかなぁって。

でもその日が来なくても
歓べる方法を
私は探したいのだろう
今は
そういうものを目指してみたい

頑張っていたら数珠つながりで訪れるその時間を甘美なものにするために
下ごしらえとして行うべき準備としての
いま

と思っていた
けど

満足は出来ないのだろうと思う。
達成感もないのだろうと思う。
大抵の仕事はそうだ
終わって満足も達成もしても
こうしたらああしたらとは思う。
ただ満足する満足感というのはない。

だから時間に縛られない喜びを探す。
自分だけで定めることのできる何か。

例えば
それはきっと誇りだ。

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頑張ったはずだという気持ちを
誇りに変えるとき
何故だか分からないけれど
その互換魔術にはいつも涙が伴う

あれはなんなんだろう。

悔しさが多い気もするけれど
でもそこには
何かに勝ったような晴れた気持ちも存在している

見逃していた何かを
不要と弾き飛ばした何かを
かき集める幼さ

いつ終わってしまっても
いつ潰えてしまっても
Look,
と言える何かを
心配しなくても本当は築いているはずで
それは今夏が来なくても
来夏がその日でなくっても
時限に左右されない空間で育んでいる
いまここで

辿り着かなくてもいい
届かなくてもいいよ

この仕事を成し遂げたらどうなるのだろうと思った原動力は
何を完成できなくてもきっとどこかに届く

命を助けなくても良いことにしよう
社会を変えられなくても良いことにしよう

純粋な好奇心を
良かったことにしよう

これが出来たら面白いんじゃないかと思ったことは
大切なことだったのだと

頑張ることには意味がある

これを終えたらどうなるのか
この仕事が出来たらどうなるのか
これを成し遂げた自分が見る世界を
覗いてみたかったという気持ちは間違いじゃない

けれどその未来がいつ
いつか
終わってしまっても
さびしくても
満足できなくても
胸を張れる

そういう時間を過ごしていると思っていたい

そういう努力を
そういう終わりのある物語を

Love so sweet: Reborn - ARASHI

www.youtube.com

It's not a mirror, it's not the sun I'm seeing
僕が見ていたのは 鏡でも太陽でもなく
You are the light that's shining in the sky
君の光だったんだ 空で輝いていたのは
Right on me
僕に降り注いでいた
My world will never be the same
まるで違う場所になっていく 僕の世界

We've left our shattered dreams behind,
砕けた夢の数々を 僕ら置き去りにして
And yesterday's a distant time
昨日だって もう遠く離れた時間
We can hear a symphony,
奏でられる音が聴こえてくる
it's our song of love
愛をうたう僕らの曲

Everywhere that you go, I go
どこにだって行くよ 君が行くところに僕も
We belong together
一緒いるべきなふたり
Memories in our hearts, they are forever
心にある思い出たち 色褪せることなんてない
There will never be anyone else
他の誰かなんて現れたりしないよ
that I love as much as I love you
こんなに愛する人は 君以外に誰も

And if you shine your light a little brighter
だから その光 もう少しだけ明るく灯して
Hold my hand and we'll reach higher
僕の手を取ったなら ふたり もう少し高くまでいこう
Believing is everything in love so sweet
この優しい恋 信じることが全て

そこから いつも 見えるように この手を 空に向け
広がる 君との 思い出

Let the journey bring you home
その旅路で うちへ帰っておいで
and you will never feel alone
きっともう独りだと思ったりしない
Now the storms passed us by
強い雨も風も いま過ぎて行ったよ
We've become a rainbow
僕らは虹になったんだ

思い出 ずっと ずっと 追いかけた夢
ふたりが遠くへ行っても
どんな辛い夜も くじけそうな 誓いでも
笑ってもっと 最後のLady
きっとそっと 願い届く
Every day and every night it's love so sweet
すべての日も すべての夜も それは優しい恋

伝えきれぬ愛しさは
花になって 街に降って
Wherever, whenever, forever,
どこだって いつだって いつまでだって
You know I'll always feel you here
きみはここにいる それをいつも感じているんだよ

Everywhere that you go, I go
どこにだって行こう 君が行くところに僕も
We belong together
一緒いるべきなふたり
Memories in our hearts, they are forever
心にある思い出たち 色褪せることなんてない
There will never be anyone else
他の誰かなんて現れたりしないよ
that I love as much as I love you
こんなに愛する人は 君以外に誰も

And if you shine your light a little brighter
だから その光 もう少しだけ明るく灯して
Hold my hand and we'll reach higher
僕の手を取ったなら ふたり もう少し高くまでいこう
Believing is everything
信じることが全て
Every day and every night it's
すべての日が すべての夜が それは
Believing is everything in love so sweet
この優しい愛 信じることが全て

You & Me - James Tw

www.youtube.com

I didn't mean to hurt you
傷つけるつもりはなかった
So why'd I let you walk out the door?
なぜ引き止めなかったんだろ
You say that you don't know me
君は分からないと言った
You don't know who I am anymore
僕という人間が分からなくなったって

But if you knew the truth, then
だけど真実を知ってくれたら
Then you wouldn't feel insecure
不安な想いはもうきっとしない
'Cause if I didn't have you
だって君がいなければ僕は
I wouldn't have nothing at all
それ以外には何もないんだ

I wish you could see yourself through my eyes
僕の目を通した 君を見せてあげたい
I always forget that you can't read my mind
僕の気持ちを読めるわけじゃないと いつも忘れてしまう

As long as I got you and me
僕には 君と僕があれば
Moving through this world as a two-man team
二人組で この世界を渡りぬいていければ
I'll always have everything I need
僕に必要なものは いつだってそれですべて
You don't even realise what you mean
君が知らなくたって 君がいることの意味を

No one could fall for you quite like me
僕みたいに 君に落ちる人は他にいない
No one could get me so perfectly
君のように 僕を分かってくれる人は他にいない
You don't even realise (Oh-oh-oh)
君が知らなくたって
You're all that I need
僕に必要なものは君ですべて
'Cause I want you and me, you and me
僕が欲しいのは 君と僕 君と僕

I know one day we'll look back
いつか思い返す日が来るんだよ
Stories on the tip of our tongues
いつだって語り出せる 僕らの物語
A library full of pages
たくさんの思い出の綴られた図書館
Remembering when we fell in love
恋に落ちたあの時を覚えている

All of the broken hearts and the stupid mistakes
傷ついた心も 浅はかな間違いも すべて
Have got us to where we are, it was worth all the pain
僕ら それがあってここまで来た あの痛みには意味がある
Yeah, we'll look back
そう いつか思い返す
We'll look back and laugh
思い返して 笑うんだ

As long as I got you and me
僕には 君と僕があれば
Moving through this world as a two-man team
二人組で この世界を渡りぬいていければ
I'll always have everything I need
僕に必要なものは いつだってそれですべて
You don't even realise what you mean
君が知らなくたって 君がいることの意味を

No one could fall for you quite like me
僕みたいに 君に落ちる人は他にいない
No one could get me so perfectly
君みたいに 僕を分かってくれる人は他にいない
You don't even realise (Oh-oh-oh)
君が知らなくたって

You're all that I need
僕に必要なものは君ですべて
'Cause I want you, you, you
僕が欲しいのは 君、君、君
Me, me, me, together
僕、僕、僕、ふたり
Oh, I want you, you, you
僕が欲しいのは 君、君、君
Me, me, me, forever (Oh-oh-oh)
僕、僕、僕、永久に

You and me, you and me (Oh-oh-oh)
君と僕、君と僕 
You and me, you and me (Oh-oh-oh)
君と僕、君と僕
You and me, you and me (Oh-oh-oh)
君と僕、君と僕
You and me, you and me
君と僕、君と僕

As long as I got you and me
僕には 君と僕があれば
Moving through this world as a two-man team
二人組で この世界を渡りぬいていければ
I'll always have everything I need
僕に必要なものは いつだってそれですべて
You don't even realise what you mean
君が知らなくたって 君がいることの意味を

No one could fall for you quite like me
僕みたいに 君に落ちる人は他にいない
No one could get me so perfectly
君みたいに 僕を分かってくれる人は他にいない
You don't even realise (Oh-oh-oh)
君が知らなくたって

You're all that I need
僕に必要なものは君ですべて
'Cause I want you, you, you
僕が欲しいのは 君、君、君
Me, me, me, together
僕、僕、僕、ふたり
Oh, I want you, you, you
僕が欲しいのは 君、君、君
Me, me, me, forever (Oh-oh-oh)
僕、僕、僕、永久に

神の祭壇: Shadowhunters

Music: ● Alec Lightwood || Bad Guy - coldrequiem 

3月は気違いのように忙しくなるはずで、
実際途中までめっちゃ忙しかったのだけど、中途半端に終わりました。
中旬が下旬になり始めるころに手持ちのプロジェクトが無くなり、出社せずともできることだけが残り、
1か月以上会社には行っていない。

時限的な仕事なので、ほんとうは今年の夏までだったのだけど、
見通しが立たない中でひとまず来年の夏までの仕事になりそう。
とはいえ今の状態でいつまでこの仕事があるのか確実には安心できず、
このタイミングで仕事がなくなったら終活は大変だろうなと漠然と明瞭に想像だけができて
どうしたらよいのか全く見当もつかない。
このまま今の仕事が続けられるとして、
しかし医療や、人々の生活といったもっとこう生命に係る何かに社会の投資があるべきだといったような
3.11の後にも悩んだことをまたもう一度考えだそうとしている脳みそが辛くて
何故ならその答えと自分が仕事としてやってみたいことが同一ではないからで、
ここではないどこかに行きたくてNetflixKindleを徘徊している。

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The 100を見て
ヒロアカを見て
ハイキューを見て
ヒロアカを読み
BLをいくつか漁って
Youtubeで料理番組をぼーっと見ているうちに、
時間が手持ち無沙汰になりのたうち回っていた。

現実世界ではない何かの世界に埋没したい。
結果Twitterのフォロワーさんのお導きに従ってShadowhuntersを見ました。

1話を見て脱落したことのあるシリーズで、
その脱落理由も明確に覚えていたのだけど、そこでは全く引っかからなかったお二人が良いということで邁進。
AlecとMagnus。
一つのシリーズを完走したのは久しぶり。
最後は突然のキャンセルにも拘わらず、
詰め込み感は確かにあったけど、
きちんと全ての人物と彼らの物語を着地させていて、制作側の献身を感じた。

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総じて言うならもったいない作品だと思った。
世界観に確固たるルールと文化と伝統が感じられて、キャラクターもしっかり際立っていて、
ホントにいろんな形の物語にできたと思う。
動画やFanficを少し漁って見ると
そもそもの原作と、そのファン層を大事にした思いやりのある制作物であることを理解できるので
一概には言えないけど、
でももっとTV向けに作って良かったと思う。

全てのシーンを全集中で見たわけではないけど、最後まで見終わって、私の主人公はAlecだった。
これはなぜなのかをいろいろ考えてみている。

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予算にも利害にも縛られない私のイメージの最果ては、
AlecをリードにしたCSI: Shadowhuntersみたいな構成にして、
そこにJaceがClaryを連れてきちゃったところから始まったらいいと思うんだよ。
だって放り込まれた先の文化を大事にできない主人公は見ていてつらい。
つらかった。
せめてClaryが、こんな世界があるなんてすごい楽しい面白い!を表現できていたら良かったと思う。
その世界を見せてあげるJaceがもうちょっと案内役として機能していればもっと良かった。
説明はしてたけど、案内って感じじゃなかったんだよ。
もっと誇りと自信を持った、オレの世界を見せてあげるよ感が欲しかった。

全体的な関係性の全てはSeason 2Aが私は一番しっくり来ていて、
ClaryとJaceは、戦友関係が一番見ていて萌えた。
あの二人は、役者さんの得意分野からあまりにもかけ離れたキャラクターだったのがホントにもったいなかったと思う。
・ホントに嫌々ながらペアを組まされていて、
・お互い自分こそが絶対に正しいと思っているが、
・相方が自分に黙って死んだりしないことを背中合わせに知っている
ような、男前な類の関係性があったら絶対に面白かったと信じてやまない。
キャラクター上はそういう設計だったじゃん、絶対。
それなのにこの二人は混ぜると甘い、優しい、みたいな方向に導いたからおかしくなったと思っている。
結果的にくっつくのかくっつかないのかやきもきするみたいな二人で良かったんじゃないかなって。

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まぁ、主演のふたりをその程度に据えられるくらいにはAlecとMagnusにやられたんだなと
分かってはいるんだけど。
Malecかぁ(溜息)。
なんだかいろいろ凄い二人だった…。
どこから凄くなったのかが分からないのが心底不思議でもある。
彼ら以外の物事のおおよそを憶えていない。

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Alecを主人公のように思ったのは、
人物として出来ることが一番増えたと思うからなんだよね。
努めてもたらされた変化が一番顕著だし、
いわゆる成長という意味ではAlecがもっとも、「できるようになったこと」がたくさんあると思った。

s1は、正直Alecの役者さん下手だなと思っていた。
いや、へたくそと思ったわけじゃないけど、上手だとは思わなかった。
感情表現がないというか。

喜怒哀楽の表現に慣れていないというAlecの人物設定の思惑は伝わるけど、
実際の彼の心情の動きは、見てる側の想像力に頼って語られている部分が多かったと思うんだよ。
それがさぁ...

まあホントに不思議でしかないんだけど、
いつの間にかほんのちょっとの仕草とか、ホントに瞬間的な口元の動きとかで
何だかAlecのすべてが分かるようになっていて、
最終話ではもう、機微な喜びや幸せに共鳴できるくらい身近な存在にだったんだよね。
我が身に何があったのか心底謎なので、もう一度見なくてはと思わせるくらい。
いつからこんなことになったんだろう。

s2x18の"There must be something in the air."のあとの、
ほんのわずかな、
笑顔とも呼べないくらい、
ひくっと顔の筋肉が動いたあの瞬間は凄かった。

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色々見ていて、
ひょっとしたらMalecの全ては
Magnusを演っていたHarry Shum Jr.のせいなのではないかという結論に行きつく。

s1x06でMagnusには、
上手く自分の感情や興味を説明できずに言葉に詰まるAlecの口元に人差し指を立てて黙らせて、
"I understand."とだけ言う場面がある。
聴き及ぶところによると、あの人差し指はHarryのアドリブらしい。
Alecを演じているMatthew Daddarioの目は、あの指を追って、ほんの少し笑った。

あの人差し指は、
私のなかではMagnusという人物を造形するうえでとんでもなく重要な仕草だった。
作品がついに終わるまで、ふわっと触れられるだけに終始した、
彼の長寿とそれに基づく余裕や貫禄のような何かを見せつける、重要な場面だと思ったんだよ。
無理はしなくていいんだよ、っていう。
でも君が話したいのならちゃんと聞こうっていう。

When you speak, I will listen.は、この二人の物語の全てであると信じている。
そうするだけの時間がMagnusにあるから。

あと、
そもそもMagnusがはだかである必要なんて絶対になかったあの
バルコニーのシーンについて。

結果的にHarryがアドリブでMattの襟元を直してあげるくだりに通じるのだけど、
あの時のAlecの笑顔は、
思い返すに恐らくAlecの最初の笑顔と呼べる笑顔なんじゃないかと思うんだ。
不用意に顔の筋肉を緩めたらああなった、という類の、安寧。

Alecが安心して笑ったらああいう顔になるんだ、という
みんな想像したけど知らなかった、とある人物のとても重要な何かを引き出したHarryの勝利だと思うしかない。

こういう表情ができるキャラクターとして解釈していいんじゃないかと、
制作陣も本人たちもあそこで知ったのかもしれない。それくらい新鮮だった。

率直に言って、s1のMalecを見ていた時、
この二人のことを私は、
s3のMalecが出来る技量の備わっている役者さんだとは思わなかったんだよ。
それがどうだろう奥さん、
見てごらんなさいよ!
あの最終回は神の祭壇に捧げたい。

----

Harry Shum Jr.の凄いところは、
Magnusの体幹の強さだと思っている。
物理。

必ずしも画面上で大した動きをしたわけではないのだけれど、
あの姿勢の良さと、
何事にも決して屈することのない首筋がまっすぐに天を向いている事実は
やっぱりとても素敵だと思うんだ。

物語が移ろう中でMagnusは
比較的守られる側に収まることで
彼本人の人物の意外性を見せる必要に迫られることが多かったと思う。
何百年生きてきても認めることができない自身の側面があるということと、
その側面をAlecが愛するということの美しさは確かに魅力的だ。

でもそれをMagnusの弱さだと誰も思わなかったと思うんだよね。

ソファーに座って義父の話をする場面で、
Alecの手が近づいてくる時、
Magnusが物凄い怯えた顔で首を一瞬引く。
でもThere's nothing ugly about you.と言い聞かせるように説明する時
Alecの大きな手がその首筋をしゃんと後ろから支えてあげていて、
そこがとても好き。
あのシーンはすべてが好きだ。

Magnusの優しさの中に住む強さのすべては
Harryの細やかな表現と
やっぱり自信に満ちたように見える佇まいというか、
立ち振る舞いの形に集約されていると思う。

結婚式の時の、誓いの言葉を言い始める前の、
「どうぞ?」というほんのわずかな眉の動きがどうしようもなくMagnusだった。

ほんとは怖いんだけどね。たぶん。
自信があるんだ。
でも不安もあるはずなんだよ。
何もかもがすべて上手く行くわけではない。
それを知るだけの年月を生きている。

でもMaryseから
頬にキスを貰い、抱きしめてもらうようなハグを貰って
逆らうことなくただそれを受け入れるMagnusを
幼い子供のようだと思ったし
同時に母親を思い出そうとするひとりの男性だとも思った。
そういう純真さが、Magnus Baneなんだろうと頷く。

永遠の命を持っていても、
際限のある愛を大切にしそうな男。

-----

正直、
作品の前半は脳みそ半分で見ていた部分が多いので、
日本語字幕を付けてもう一度ちゃんと見てみたら面白いかなと思っている。
あのs1の二人(AlecとMagnus)が、
最終話の二人にどうやったらたどり着くのが未だに不思議でしょうがない。

声も違えば表情も違う。
そういう瞳の光り方が出来たのねという分子レベルで、表現の幅が違った。
あれは撮影班の技術的な援助なのか
役者側の段違い的な進歩なのか
分からないけど
肝心なことは、その変化を視聴者である私が信じたということなんだよなぁ。

面白いものを見届けました。
片手間にみて、
?!?!?!?!
となるのが楽しい作品だとも思った。

機会があればどうぞ!
どぼーん!